経営者に必要な資質として、「レジリエンス」や「GRIT」を挙げる識者が増えてきた。競合他社を打ち倒す「剛」の強さではなく、時代の変化にしなやかに対応し最後までやり抜く「柔」の強さが求められているのかもしれない。東京エレベーターの馬英華社長も、そうした強さで逆境を乗り切ってきた社長の一人である。
- プロフィール
- ま・えいか●1965年、中国大連市生まれ。大学4年生の時に来日し1990年、早稲田大学法学部に入学。修士課程を経て99年同大学院法学研究科博士後期課程修了。96年に中国弁護士資格を取得後、97年に日本で東京エレベーターを設立。2004年に同社代表取締役に就任。日中ビジネスを熟知する中国弁護士として多くの日本企業の顧問を務めるほか、講演・執筆活動も活発に行っている。中国ビジネス研究所所長、新生アジア代表。著書に『果実と毒』(光文社)、『交渉術』(PHP研究所)、『目標は夢を叶える近道』(ビジネス教育出版社)『逃げ切る力逆境を生かす考え方』(日本経済新聞出版社)。
馬社長の出身地は、歴史的に日本とのつながりが強い中国東北部の都市大連(遼寧省)。母の厳しいしつけによって、小学生から家畜への餌やり、掃除、洗濯、食事の準備を分刻みのスケジュールでこなした。友達と遊ばず真っ先に帰宅する少女はいつしか仲間はずれになり、いじめにもあった。
馬英華 氏
決められた時間に家事が終わっていないと猛烈に怒られました。一番つらかったのは、夜中に「きれいに衣類が洗えていない。もう一度洗ってきなさい」と洗濯物を土の上に投げ捨てられたこと。ぬれて重くなった洗濯物を遠く離れた川までもっていくのが大変なうえ、辺りは真っ暗。そこかしこにいた野良犬から盛んにほえ立てられた恐怖感は今でも鮮明に覚えています。振り返ると、こうした日常を送っていたせいか、雑草魂とでもいいましょうか、とにかく「生きる力」が強くなったのだと思います。当時は男尊女卑の文化が強い時代でもありました。きょうだいは弟と年の離れた妹がいますが、家事はすべて姉妹の役割。弟は殿様のような身分で、学校から帰ってきたらすぐにオンドル(一段高くなって温かい場所)に寝そべります。小さい頃は妹とふたりで足と手を持って「手伝ってよ」とオンドルの上から放り出して手伝わせたりしていましたが、体が大きくなってからはそれもできなくなりました。
なぜか母親は、小さい頃から馬社長に冷たかった。難関の高校受験に失敗し帰宅した時に浴びせられた激しい罵声は決して忘れることはない。この境遇から逃れたいという一心で、何人も命を落としている底なしの沼に足を運んだこともある。こうした最悪の母娘関係を乗り切ったのは、生まれながら備わっていた負けず嫌いの性格と知的好奇心だった。
小さいころから私は、「なんでこの世に生まれてきたのか」「世界に出てみたら一体どんなことが待ち受けているのか」などといったことを深く考え込む性格でした。また人の役に立ちたいという気持ちも人一倍強く、知人や友人から相談があったときに人ごとということも忘れて自分事のように動くところがありました。さらに男尊女卑に対する反抗心もありました。「女の子だって男と同じように能力を発揮して世の中に役に立つんだ」ということを何としてでも証明したいと思っていたのです。こうした反骨心が「手に職を持ちたい」という願望を生み、中国では弁護士資格、日本では「昇降機等検査員」などビル管理に関するさまざまな資格を取得できたことにつながったのだと思います。
「なければ君がつくればいい」
一度失敗した高校受験に再度挑戦し見事合格した馬少女はその後、大連外国語学院(現大連外国語大学)に進学。留学制度を活用し早稲田大学に留学した。その後同大大学院に進学しながら中国で弁護士資格を取得、猛勉強の日々を送った。日本の大手メーカーでの就業や中国国内での弁護士としての活動も経験した馬社長が、日本での起業を決意したのは、1997年のことである。
中国での弁護士勤務をいったん終了し再び早稲田大学の博士課程に戻ることを決めたとき、上海である実業家の方から「高品質の日本製エレベーターが中国でも多く導入されるようになった。メンテナンスサービスの会社を立ち上げようと思うが、部品や研修プログラムの提供などで協力してくる会社を日本で探してくれないか」と頼まれたのがこの事業をはじめるきっかけでした。その方は以前何度かお合いしていて、その情熱に心を動かされていたので、協力することを約束したのですが、いざ日本で調査すると、彼の希望をかなえられるような企業を探すのは難しいことが分かりました。日本の業界ではメンテナンス会社はメーカーの系列会社によってほぼ独占されていたのです。そのことを彼に伝えたところ「だったら君がその会社をつくればいい」と。「できないの?」と言われたら挑戦しないわけにはいきません。どうしても彼の手助けをしたかったこともあり、日本で起業できるかどうか早速調べてみることにしました。
この翌日に法務局に出掛けるのが弁護士らしいところ。外国人が日本国内で起業する障害について尋ねたところ「できない理由はなにもない」との返答。そして共同出資者の日本人男性が社長、馬社長が副社長という体制で設立にこぎつけたのが、東京エレベーターである。「通信業界などで起こった規制緩和、自由化の波がエレベーター保守業界でも必ず起こる」と予想していた馬社長だが、顧客開拓には苦労した。
最初営業は当時の社長が担当したのですが、半年間1件も仕事がありませんでした。月給50万円で技術者を雇っていたので資金があっというまに消えてしまう事態に。そんなピンチの時、突然、異業種交流会などを開催していた大学時代の友人のことが頭に浮かびました。わらにもすがる思いで電話したところ、偶然にも「明日の土曜日に200人くらいの経営者が集まる交流会が、東京の万世橋であるよ」とのことでした。外国人でしかも女性である私はそれまで営業経験などゼロ。きちんと会社を宣伝できるかどうか不安でしたが、ためらっている余裕はありません。自らその場に行って事業をPRすることを決めました。
200人以上の経営者が集まった翌日の交流会では、女性の数はわずか数人。とにかく一人でも多く名刺をくばり、自己紹介と「メーカー系列の保守会社より3割安いですよ」という言葉だけひたすら繰り返していました。すると驚いたことに、しばらく時間がたつと私の回りに人だかりができるようになったのです。外国人女性が珍しく興味津々だったのもあるとは思いますが、「すぐに見積もりをとってくれないか」という方も多く、やはり自社ビルなどのメンテナンス費用を少しでも下げたいというニーズがあったのだと思います。社長や専務などと直接面会した効果は絶大で、交流会をきっかけに一気に10台くらいの契約がまとまりました。「こういう会社を探していたよ。本当に助かった」と声をかけていただいたのが何よりうれしかったですね。
「出し渋り」には法律で対抗
小所帯なので人手が足りず、馬社長自ら現場で汗を流した。エレベーターのかごの天井に乗り、暗闇のなか手動スイッチで上下させる危険な作業も行った。多くの顧客から高い評価を得たが、またもや壁にぶち当たる。大手エレベーターメーカーが、独立系メンテナンス会社である同社に対し、修理部品を「出し渋り」したのである。
当時の私の重要な仕事は、普及しはじめた携帯電話を駆使し、どうにかして修理部品を調達することでした。なにしろメーカーに電話するとどこも「3カ月かかる」と言うのですから。困っているお客さまをそんなに長期間待たせるわけにはいきません。そこで私は過去の判例を調べました。その結果、そうした行為が独占禁止法に規定された不当な取引妨害に当たることを確認したのです。メーカーへの電話で「部品をすぐに売ってくれないと公正取引委員会にこのことを知らせますよ」と言うと、2~3日で部品が届くようになりました(笑)。創業当初は、知識不足で修理することができず、結局ほかのメンテナンス会社に協力を仰いだこともありましたが、中途採用による人員増や現場をこなしていくうちにそうした問題も解消していきました。
こうして馬社長は、メーカー系の寡占状態が続いていたエレベーターメンテナンス業界に新たな風を吹き込むことに成功する。たった1社で「規制緩和」を成し遂げた同社は、数年後にさらに脚光を浴びることになる。メンテナンスのみならず、エレベーターの設置工事への参入を決めたのである。
都市部では老朽化したエレベーターを更新する需要が今後高まると予想し、古いエレベーターをリニューアル工事する事業への参入を発表したのです。リリースの書き方を学ぶ講座に通ってリリースを出したところ、何と日本経済新聞が取材に来てくれることに。そして1999年8月、「老朽化エレベーター更新 3~4割安く施工」と3段見出しで報じられ、大変な反響がありました。記事では、業界が寡占状態で独立系企業が珍しいこと、独立系メンテナンス企業でも施工事業が可能だということなどがニュースバリューとして評価されていました。当社のサービスによってよりたくさんの人に恩恵を受けてほしいと考えていたので、マスコミに取り上げられたのは本当にうれしかったですね。関東地方だけでなく北海道から沖縄まで、「ずっとこんな会社を探していた」と電話が頻繁にかかってくるようになりました。エレベーターの更新需要は東京五輪後もさらに強まる見込みで、当社でも工事業務の比率が高まっていくと予想しています。
同社の参入をきっかけに業界内には独立系企業が増えたが、新卒採用を行い営業から施工まで一貫して請け負える体制を構築しているところはまだ少ないという。事業環境の変化やIT技術の進展を見据え、馬社長はさらなる事業拡大に意欲を見せている。
スマホやロボットの普及、仮想通貨の誕生、宇宙科学の進展──世の中はすごい勢いで変化しており、何があってもおかしくない時代です。今の経営をそのまま継続して一生懸命やっていけばよいというわけではないのです。保守的な考え方を捨てる勇気をもって、時代に合った事業にチャレンジしながら失敗のなかで業績を積み上げていく心構えが必要なのではないでしょうか。当社はエレベーター関連の仕事だけではなく、来年から人材派遣の事業にも新規参入する予定でいます。中国だけでなく、東南アジア出身の方に日本語教育・文化教育をして日本企業へ派遣する構想を立てていますが、人材不足の折、試す価値の非常に高い分野だと考えています。
それから昨年、一般社団法人「新生アジア」を立ち上げました。逆境を生かしてきた私の経験をシェアし、利他の心や個人の成長につなげることを目的とした会員制のボランティア活動です。「女性の力を生かす」を活動の柱の一つとしているため参加者は女性が多いですね。メンバーは続々と増えており、海外展開も検討しています。
無駄なことは一つもない
こうした体験を日本経済新聞電子版の連載「ビジネスリーダー/経営者ブログ」で執筆する。ソフトバンクグループの孫正義氏、京セラ創業者の稲盛和夫氏など経済界を代表する重鎮を抑え、堂々のアクセス数1位に輝く。反響を受け昨年末、連載をまとめ加筆した『逃げ切る力 逆境を生かす考え方』を出版した。
本書で伝えているのは、つらかった家庭環境や差別など「忘れたい、あまり触れたくない」と思うような体験ばかりです。打ち合わせでは担当の日経新聞記者と一緒にものすごい量の涙を流しました。昔の傷を振り返るのは想像よりつらいものです。連載が終わった後少し冷静になった今でも、読み返すとやはり涙がこぼれます。しかしたくさん泣いたからこそ、今では普通のように話せるようになりました。つらい体験や逆境の数々は、自分の役割・使命を果たすため、精神を鍛えるために神様が与えた試練だと思うようになったのです。ひとりの外国人女性が日本で、毎年新たな経営課題に対処しながら、売り上げを伸ばし、人を育て、執筆活動や講演活動をこなし、弁護士やコンサルタントの仕事も引き受ける……これは決して簡単なことではありません。それでも何とかここまで乗り越えられたのですから、体験したことで無駄だったことはひとつもなかったということでしょう。
(インタビュー・構成/本誌・植松啓介)
名称 | 東京エレベーター株式会社 |
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設立 | 1997年6月 |
所在地 | 東京都中央区日本橋蛎殻町1-19-4 EEビル |
社員数 | 35人 |
URL | http://www.tokyoelevator.com/ |