未知の感染症が世界を襲うなか、スポットが当たっているのが、指導者や感染症専門家の発信方法。各国がおしなべて封じ込めに悪戦苦闘する一方、国民の心に響くメッセージを届け称賛されたリーダーもいる。経営者に求められる、非常時のコミュニケーションのあり方とは──。
- プロフィール
- にしざわ・まりこ●東京生まれ。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒。現みずほ銀行デュッセルドルフ支店勤務、製品安全コンサルタントを経て、英国ランカスター大学環境政策修士号、インペリアルカレッジ・ロンドンにて博士号を取得(PhD in Risk Policy and Communication)。10年の英国とドイツでの研究生活を経て、2006年帰国。株式会社リテラシー(リテラジャパン)を設立。専門はリスク政策とリスクコミュニケーション。『「やばいこと」を伝える技術』(毎日新聞出版)、『リスクを伝えるハンドブック』(エネルギーフォーラム)など著書多数。
──現在取り組まれている活動を教えてください。
西澤真理子 氏
西澤 コミュニケーションの専門家として一般企業を対象に、リスクマネジメントのコンサルティング活動を行っています。
そのほか社会貢献活動にも取り組んでいて、目下注力しているのが「夜の街応援! プロジェクト」です。「新宿2丁目営業再開のためのガイドライン」を監修された岩室紳也医師と共に、いわゆる夜の街と呼ばれている繁華街を訪問し、新型コロナウイルス感染リスク低減のための店舗づくりを支援しています。
──プロジェクトで指導されている内容は?
西澤 これまでに、客足が遠のいてしまっている新宿エリアのバー、すし店等で無料レッスンを行いました。アドバイスしている事柄は、感染リスクを抑える来店客との接し方や料理の提供方法、効果的な飛沫(ひまつ)感染対策など。例えば男性はカバンを床に置きがちですが、感染対策上好ましくない。会話時に発生する飛沫が床に落ちるためです。カバンから携帯電話を取り出し、そのまま素手で料理にふれると、感染リスクはたちまち高まります。
そもそも感染リスクを一発でゼロにできる方法はありません。さまざまな対策を施し、可能性を低減するという発想が大切であり、それがリスクマネジメントのベースとなる考え方です。プロジェクトのウェブサイトで、私たちの活動の紹介動画を公開しています。12月末までに60軒訪問することを目標に取り組んでいるので、関心のある方はぜひお声がけください。
相手の立場に身を置く
──日本では「リスク」という言葉が誤用されていると訴えられています。
西澤 一般的に「危険」と訳されますが、本来は「好ましくないことが起きる可能性」を指します。もうひとつ、混同されがちな概念として「ハザード」があります。こちらは「危害因子」、「有害性」を意味する言葉です。
一例をあげると、アルコール飲料には発がんハザードがあるといえます。ただ、ハザード=危険と定義してしまうと、酒屋さんに抗議する人が現れかねません。重要なのは飲酒量によって、リスクは変化するということ。端的には「リスク=ハザード×さらされる頻度や量」と表せます。
──リスクは危険度を指すわけですね。コロナ禍で「オーバーシュート」など、なじみのない専門用語を耳にする機会が増えました。昨今のコミュニケーションのあり方をどう感じていますか。
西澤 さまざまな専門用語が飛び交っているのは感染症の専門家にとって、状況を説明する適切な日本語が思い当たらなかったからでしょう。ただ本来、一般の人々に対しては、誰もが理解できる言葉に翻訳して情報を発信するべきです。言葉の意味を正確に把握できないと、自分なりに解釈してしまい、コミュニケーションにそごをきたす原因になります。
福島で原発事故が起こった際に発せられたのは「ただちに影響はない」というメッセージでした。私は以前、飯館村でアドバイザーを務めていましたが、住民の方々は今すぐ影響なくても、いずれ体調に変化をきたすのでは、と不安がられていました。当時を振りかえると、現在の状況に既視感を覚えます。
コミュニケーションにおいて大切なのは、「相手に伝わるように加工して一貫したメッセージを発信すること」です。相手は自分とは異なる存在であるという前提に立ち、相手の立場にいったん置き換えて、言葉をどう受け止めるか想像をめぐらします。その際、相手の出身地や職業、背景などをふまえ、身近な例を交えて説明するのがポイントです。
もっとも、緊急時は心の余裕がなくなってしまうので、平時のように伝えても十分咀嚼(そしゃく)できません。コロナ禍において政治家や専門家の発言内容で食い違いが見られたのは、混乱を引き起こすもとになりました。さまざまな情報がある場合、ヒトは防衛本能が働いてネガティブ情報の方に反応してしまうんですね。ですから終始一貫したメッセージを繰り返し発信するのが重要なのです。
──この間、自治体の首長をはじめ、各国指導者のメッセージの発信方法が注目されました。参考にするべきリーダーを挙げるとしたら?
西澤 私はドイツのメルケル首相に注目していました。彼女は旧東ドイツ出身で物理学者という、ユニークな経歴の持ち主です。私も訪問したことがありますが、東ドイツでは移動や商品の売買など、自由が制限された生活をしいられました。メルケル氏もそうした経験をしているにもかかわらず、感染拡大防止を目的に1日の面会人数に上限を設けるなど、厳しい行動制限を国民に課します。
彼女はドイツ国民に向けたテレビ演説で、自由を制限せざるを得ないことを自身の経験をふまえて訴え、協力を呼びかけました。ふだん割と早口で話す方ですが、演説では平易なドイツ語を用い、自分の言葉で切々と語りかけていた点が印象的でした。ファクトと感情のバランスをうまくとって発信しており、リスクコミュニケーションのお手本といえるでしょう。
長期戦を覚悟しよう
──翻って日本におけるコロナ対応で感じることはありますか。
西澤 冒頭に話したとおり、感染リスクをゼロにすることは不可能ですから、さまざまな工夫でリスクを低減させていくしかありません。日本人は問題に直面すると、短期決戦で決着させようとする傾向がありますが、ことコロナに対して同様の方法で臨むのは危険です。
たまたまいま読みなおしているのが、ロングセラーとなっている『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』という本。日本軍が太平洋戦争で敗北した要因を分析した1冊です。この本を読むと、米軍が長期戦を念頭に、戦略を立てていたのに対して、日本軍は精神論を前面に押し出し、無謀な短期決戦を挑んだ点がよくわかる。コロナ対応で求められているのも中長期の視点であり、感染者数を日々発表するのも大事ですが、経済へのダメージをいかに抑えるか、もっと考えないといけません。
──クラスターの発生は、中小飲食店などにとって死活問題になります。中小企業経営者はコロナにどう臨めばよいでしょう。
西澤 以前、職場の更衣室で社員がマスクを着けずに長時間会話していたため、コロナに感染してしまった例がありました。経営者がコロナに関する知識と予防策を従業員にきちんと説明し、納得のもと対策がなされていれば、こうした事態は避けられたはずです。「夜の街」プロジェクトを通してわかったのは「うちの店はいろいろ対策しているのでこれ以上必要ありません」と話す店主が意外と多いこと。ただ、効果があまり期待できない対策を行って満足している店舗も散見されます。
経営者の方には何よりもまず、正確なコロナ対策を知ってもらいたいですね。例えば冒頭でふれたガイドラインには、グラスはカウンターの下に保管する、料理を大皿で提供しないようにする、洗面所の蛇口を自動水栓化する……といった、基本的な対策が盛り込まれています。
プロジェクトで共に活動している岩室紳也医師は日ごろ感染症対策を徹底し、30年間インフルエンザにかかっていないそうです。日常行動をつぶさに観察すると、食べ物を口に入れる前に細心の注意を払っている点に気づきました。飲食前の手洗い、手指消毒を欠かしません。帰宅後はすぐにシャワーを浴び、服を着替えるそうです。
そのほか、公衆衛生に詳しい和田耕治国際医療福祉大学大学院教授著の『企業のための新型コロナウイルス対策』(東洋経済新報社)など信頼できる書籍を読めば、正しい知識を得られるでしょう。いずれにしろ、マスクさえ着用していれば安心と思い込み、思考停止に陥るのが最も危険。店舗の実情に即したコロナ対策を考え、従業員の納得感を得て実行することがカギです。
──感染者やクラスターの発生した店に対する差別も問題になっています。
西澤 日本社会から寛容さが失われつつあると感じる一方、なじみの個人経営のお店を支援する動きも見受けられます。根底にあるのは「お互いさま」という発想です。他人事ではない、お互いさまの気持ちが社会を回していく。
プロジェクトの活動で歌舞伎町や新宿2丁目に足を運ぶうちに、街の魅力に気づきました。以前はどことなく近づきがたい印象を抱いていましたが、個性的な店舗が数多くあり、大人の楽しめるところだと感じました。街に懐の深さや寛容さがあるんです。
誰もが風紀委員のように目を光らせ、監視しあう社会は健全ではありません。「夜の街」と十把ひとからげにしてバッシングしていると、新宿の繁華街はダイナミズムを失ってしまうでしょう。文化は寛容性や多様性から生まれてくるものだと思います。私も中小企業の経営者として、お互いさまの気持ちで中小店舗の支援活動を続けていきます。
(インタビュー・構成/本誌・小林淳一)