海上防災業務を営む仁徳海運(福岡県北九州市)は、特例事業承継税制を活用して昨年事業承継を行った。強い信頼関係で結ばれた先代と顧問税理士が名義株の整理や遺言書の作成を協力して行い、円滑な相続を実現。ファミリー企業における事業承継のお手本のような事例である。

中川哲司社長

中川哲司社長

 関門海峡を九州側からのぞむ福岡県北九州市の門司港。港沿いに走る国道199号線沿いに本社を構える仁徳海運は、海運業界には欠かせない海上防災業務をメインに手がける企業だ。海上防災業務とは、石油タンカーなどでトラブルが発生した場合に現場に駆けつけ、放水で海上火災の消火作業を行ったり、海上に漏れた燃料油・積み荷の油を回収したりする仕事。3代目の中川哲司社長は自社の業務をこう紹介する。

「船と船が衝突して燃料油が海上に漏れたり、発電所や油槽所で荷役中の油が漏れたりした場合に専用船で現場に急行し、オイルフェンスを使って油を回収するのが主な仕事です。地元の九州電力や油槽所などと年間契約を結び、福岡県苅田町、鹿児島県薩摩川内市、いちき串木野市、熊本県八代市の4事業所で24時間365日体制の警戒態勢を整えています。このほか全国に拠点を持つ独立行政法人海上災害防止センターや、沈没船を引き上げるサルベージ会社などからも出動要請があり、過去の大きな事故で瀬戸内海や京都の舞鶴港で作業を行ったこともあります」

 関門港における石油備蓄基地を対象としたタンカー専用の海上防災業務では、およそ9割以上のシェアを獲得しているという。年間契約による海上防災業務の売り上げは総売上高のおよそ3分の2で、それ以外にも製油所で積んだ油を小倉や八代などの石油基地へ運ぶ内航タンカー船の時間確認や積み荷の数量計算、陸上関係者との連絡業務などを請け負う船舶代理店業務も手がけている。

特例事業承継税制の適用は月次巡回監査の延長線上

北九州市の本社社屋

北九州市の本社社屋

 2018年2月、海上防災業務に参入し同社の現在の骨格を作り上げた先代の中川信幸会長が亡くなった。顧問契約を結ぶ税理士法人エルビーエーがTKCの『TPS8800』で特例事業承継の適用要件を確認したところ、納税猶予額は約300万円になることが分かった。

 特例事業承継とは、対象株式数の上限撤廃や猶予割合を100%にするなど事業承継の適用要件を大幅に緩和し、事業承継に係る金銭負担をゼロにすることが可能になる制度のこと。同制度を活用するには、承継後5カ年の「特例承継計画」を作成し、関係する公的機関に1年ごとにモニタリングの結果を報告しなければならない。

 同事務所は、特例を活用した場合と活用しない場合の手続きの違いなどを丁寧に説明したうえで、最終的な決断を中川社長に仰いだ。日頃から厚い信頼を同事務所に寄せていた中川社長の返答はもちろん「活用する」だった。

「月次巡回監査で数字の詳細な説明が受けられるのに加え、『ここはこうしたほうがいい』という経営上のアドバイスももらえます。今回の特例事業承継もその延長線上なので、もうおまかせという感じでした」

 税理士法人エルビーエーで監査担当部長を務める三浦聡氏が補足する。

「面倒な手続きはあるにはあります。しかしこうした公的制度を利用することによって、亡くなった先代の遺志を確認することにもつながると考え、特例事業承継を活用することにしました」

 先代の遺志とは一体何か。中川社長に素朴な疑問をぶつけると、中川家が乗り越えたある問題について話してくれた。

三浦祐亀税理士

三浦祐亀税理士

「3人兄弟の次男だった父は、株式をめぐって兄弟間で随分もめましてね。最終的に裁判まで行きました。しかしその過程で父は親族間の争いを隠すことなくありのままに私に見せた。今思うと、『よく見て勉強しなさい、おまえの代になったときは親族仲良くやらなければいけないよ』というメッセージだったと思います」

 20年ほど前に、退職金や非常勤報酬の額をめぐって兄弟間で仲たがいが起こってしまったのである。交渉は難航したが、先代は粘り強く話し合いを重ね、最終的に株式を買い取って自社株式として会社が保有することで決着した。同税理士法人の三浦祐亀会長は、当時の先代の誠実かつ一貫した行動をこう称賛する。

「本当にうまく解決したんです。裁判で争った兄に相応の支払いをし、息子さんには職場も与えた。裁判で決まった以上のことを実行したのです。その立派な姿は社員の心を打ち、『モノとかお金以上に人が大事』という風土が会社に根付きました。海上防災の仕事は、陸上でいえば消防署みたいな役割を担う大変な仕事で、いつ何時想定外のことが起こるか分かりません。社員一人一人のモチベーションが非常に大事ですが、トップのこうした姿勢は間違いなく社員のやる気につながっていると思います」

行政へのモニタリング報告で先代の遺志を確認する

集合写真

左から三浦貴海税理士、中川社長、三浦税理士、三浦監査担当部長

 株式の評価や買い取り実務などで全面的に協力した税理士法人エルビーエーは、3年がかりで名義株の整理を行った先代に対し、さらなる提案を行う。3代目への事業承継を見据え、公正証書遺言書を作成するよう促したのである。2010年ごろのことだった。

「あなたが苦労したことを次世代に持ち込ませない方法はこれしかありませんよ、と遺言書の作成を勧めました。公正証書遺言書の執行の段階で苦労することのないよう、遺言執行者を僕が引き受けることも同時に提案し、先代夫婦ともども賛同されたのです」(三浦会長)

 中川哲司社長を含め経営に関与する3兄弟の株式保有割合をどのように決めるか、経営に関与していない長女や次女、母親への資産の分配はどのようにするか、相続を通じトップが動きやすい仕組みをどのように構築していくか――先代の意思を確認しながら、ひとつひとつ中身を詰めていった。

 実は財産の公平な配分を社長本人が決定するのは難しい。「会計事務所が関与しないと、数値としての合理性が欠けてしまう」(三浦会長)からである。合理性・公平性と本人の希望を高度にバランスさせるため、やりとりは10回以上に及んだという。

3月にグランドオープンした門司港駅

3月にグランドオープンした門司港駅

「遺言書作成の過程で、子どもたちに苦労をさせたくないという漠然とした希望が具体性な計画として見える化されるようになり、先代自身が何をしなければならないか次の行動に移しやすくなっていったと思います。最終的に公証人役場に実印を持って正式に書類を作成したのを機に、事業承継について本当の意味で自分自身の心が固まったのではないでしょうか。その後は『ここからここまでは口を出すが、それ以外のことは任せた』と経営に対する態度がコロッと変わりましたからね。丸投げとまでは言いませんが、現社長に多くを頼るようになりました。一緒にゴルフのラウンドを回っている途中に『実は今日は大きな商談があるんだ』など以前は絶対に聞くことのないようなセリフが口を出るようになったのもこの頃です」(三浦会長)

 中小企業の事業承継を支援する税理士の役割を強調する三浦会長のモットーは、「事業承継は自分が創業・承継した時から始まっている」。それを手続き上で具体化する仕掛けが、遺言書の作成なのである。

 先代と顧問税理士の間で公正証書遺言書作成が進められていたという事実は、実は先代が亡くなった後にはじめて遺族に明らかにされた。遺族から反発の声はあがらなかったのか。中川社長はいう。

「家族は誰もこのことについて知りませんでしたが、財産の分配については不平や不満を漏らすものは一人もいませんでした。もちろん家族の受け止め方はそれぞれだと思いますが、私は父が『家と墓のことを頼んだぞ、後は会社をうまく回していってくれ』と呼びかけている風に感じましたね」

オイルフェンス展張船「仁徳3」

オイルフェンス展張船「仁徳3」

 相続が「争族」になり、親族間の人間関係が険悪になってしまう話はよく聞くが、同社の場合は全く違う。「法事は全家族出席、孫たちが大勢駆けつけ会場は保育園状態になります」(三浦会長)と円満な関係が持続している。亡くなった先代の「家族仲良く」という思いは見事に3代目に受け継がれた。中川社長にとって、特例承継計画の1年に1回の報告義務は、一家が争うことなく力を合わせて会社経営にあたっていることを公式に表明する場でもあった。これが、三浦会長が「100点満点で事業承継のお手本のようなケース」と表するゆえんである。

 自動車関連は好調なものの、石油や鉄鋼関連などで不透明さが漂う海運業界。年間契約が基本の海上防災業務は比較的安定して推移しているとはいえ、「パイが限られている」(中川社長)のも事実。来年度にかけ、もう一つの柱である代理店事業を伸ばすべく、営業活動を積極化していく計画だ。さらに特例承継計画には、船の更新計画も盛り込んだ。狭い場所や浅瀬でも機動的に動ける2000馬力程度の小型タグボートの需要が高まっており、新しい船にどのような機能を付けるか本格的な検討に入るという。

(本誌・植松啓介)

会社概要
名称 有限会社仁徳海運
創業 1949年1月
所在地 福岡県北九州市門司区小森江1-2-9
売上高 4億4,000万円
社員数 45人
顧問税理士 代表税理士 三浦貴海
税理士法人エルビーエー
福岡県北九州市門司区大里東口3-7
TEL 093-391-5656

掲載:『戦略経営者』2019年5月号