中小企業の後継者問題が深刻化している。跡継ぎが見つからず、優良企業が廃業を余儀なくされるケースも少なくないという。さまざまな障害が立ちはだかるなか、成功した後継社長はどのように事業承継の覚悟を決め、会社を改革していったのか。シリーズで跡継ぎ社長の挑戦を追う。
- プロフィール
- なかのり・ようへい●1972年、東京都生まれ。学習院大学法学部政治学科卒。デンバー大学でホテルレストランビジネスを学んだ後、2000年に玉寿司に入社。2005年、代表取締役社長に就任。「世界で一番海の幸をおいしくする集団でありたい!」がモットー。かつてブルース・リーに憧れ、空手初段、少林寺拳法3段の腕前を持つ。好きな言葉は「成長をあきらめない」。
中野里陽平 氏
屋号に「築地玉寿司(たまずし)」を掲げる玉寿司(東京都中央区)は、今年で創業95年となる老舗すしチェーンだ。従業員を大切にする会社として、新入社員を含めた離職率が極めて低いことでも知られている。同社4代目の中野里陽平社長は、「会社で最も重要な財産は人財です」と断言する。
「当社には、正社員であるかアルバイトであるかを問わず、スタッフ全員に有給で研修を実施しています。僕が学生時代に外食産業でアルバイトをしていた時代に、そんな扱いを受けたことは一度もありませんでした。僕は単純な人間ですから、そうした場があればもっと一生懸命働いていたのにという思いから、アルバイトにもきちんと研修を受けてもらうことなどを通じ、会社が人財を大切にしているというメッセージを常に発するようにしています」
均一価格と手巻きずしで人気
同社を創業したのは、中野里社長の祖父、栄蔵氏。日本橋のまぐろ問屋に生まれた初代は、関東大震災で日本橋一帯が延焼し市場が築地に移転したのをきっかけに、かねてから念願だった高級すし店を築地に開業。「玉寿司」と名付けた。昭和20年前後はやむなく営業を休止したが、49歳という若さでこの世を去った初代の「玉寿司を頼む」との遺志を受け継ぎ、祖母のこと氏が戦後に営業を再開。当時は珍しかった「女板前」として必死に店を切り盛りした。その後昭和40年に第1号の支店を開設。そのタイミングで父・孝正氏(現会長)に代替わりする。そのまま時代は高度経済成長とバブル経済になだれこんでいった。
「支店第1号は渋谷駅前東急プラザ内でしたが、父が飛び込み営業で獲得したテナントでした。当時盛んに行われていた駅ビル再開発に照準を定めた出店戦略がうまくいったのです。その後駅ビルとの縁が深くなり、瞬く間に店舗数は30を超えました。社内体制も整備し、父の代ですし屋から企業へと飛躍したのです」
好景気の継続という外部要因に加え、価格戦略やメニュー戦略も当たった。一つは1貫40円という均一価格を銀座で打ち出したこと。昭和40年代後半といえば、団塊の世代が社会人になりはじめた時代で、消費の主力は「ヤング」だ。同社は若い世代がデートなどで限られた予算のなかで気軽にすしを楽しめる価格戦略を打ち出したのである。仕入価格による値段の変動が当たり前だった銀座のすし店にとって、この均一価格の導入は衝撃的だった。
とはいえ均一価格での販売は、仕入価格の上昇によって赤字のリスクが高まることでもある。そのため抱き合わせで考え出したのが、「梅じそ巻き」などの手巻きずしを1本100円で大々的に販売する戦略。すし店で手巻きずしがメニューに並ぶのは今でこそ当然だが、実は築地玉寿司が発祥だという。こうして若年層の取り込みを明確に狙った画期的な戦略が見事に結実し人気は爆発、出店依頼が引きも切らなくなった。
米留学で最新理論を吸収
その後同社はバブル崩壊とともに大変な事態に陥ったのだが、将来を嘱望された中野里陽平氏がそんな社内事情を知るよしもなかった。外食産業の本場である米国の大学でフードビジネスを学んでいたからである。
「学生時代にレストランやビアホール、イベント会場、築地市場、大手ピザチェーン――本当にいろいろな種類の外食企業でアルバイトを経験しました。そこで痛感したのは、お店がただ時給のためだけに働く職場になってしまうということ。私もシフトに入るたびに『めんどくさいな』と思うようになっていました。こうなってしまうのは、働く人に火を付けられていない組織に問題があると思いました。誇りややりがいをもって働ける外食企業のあり方を学ぶため、大学卒業後、外食産業が最も進んでいる米国に行くことを決めました」
当時出店していたカリフォルニア・ニューポートビーチ店で働きながら、3年間みっちり最先端のレストランビジネス理論をたたき込んだ。最新の研究成果から得られた科学的な知見は目からうろこのものばかりだったという。
「ある米国人の先生からは『店舗づくりでは自然のマテリアルをうまく使え』ということを教わりました。金属やプラスチックなど人工的な素材は、たとえおしゃれに見せても10年で陳腐化することが統計上明らかになっているそうです。なるほど、現地で長く続いているお店は火や植物などの緑、木材、石を上手に使っていました。こんなことを教えてくれるところは日本にはありませんでした。これを聞いただけでも3年間の学費分はもとをとったと思いましたね」
世界トップの外食産業にかかわる最新の知識を吸収。気力体力ともに充実した状況で帰国し、玉寿司に入社したのは27歳のときだった。ところが中野里社長のモチベーションは、程なくして奈落の底にたたき落とされることになる。
「ある日財務担当者に呼ばれて、『全部知っておいたほうがいい』といって決算書などの財務書類をすべて見せられたのです。米国留学でアカウンティングも勉強していたので一目で状況が分かり、『なんでこんなことになっているんだ』とがくぜんとしました。とにかく借金が多すぎる。財務担当者から『当社は水面の上に浮かんでいる枯れ葉と同じです。そこに一滴でも雨が降ってきたらどうなるかおわかりでしょう』と言われたことは今でも忘れません」
そのこころは、「いつひっくり返ってもおかしくない」である。実体経済の悪化にともない確かに売り上げは減少していたが、一番の要因は不動産の資産価格が大幅に目減りしたことだった。銀行の勧めで不動産を積極的に取得し、それらを担保に入れることで新規出店に必要な金額を借り入れるという資金繰りの手法が完全に行き詰まったのである。銀行に言いたいことはたくさんあったが、結局は自己責任の世界だ。借りた側が背負うしかない。
店舗リニューアルで実績
失敗の許されない仕事もまかされていた。出店戦略から店舗デザイン、コンセプト決定を含め総責任者となっていた大型新店舗、銀座晴海通り店のオープンが控えていたのである。
「当時私がトップだったら絶対やらないと思えるほど費用がかかった案件でしたが、案の定『失敗できない』と意気込んだプロジェクトほど最初はうまくいかないもの。4カ月の間、苦しみに苦しんで何とか5カ月目から黒字転換を果たしました。財務は火の車でしたから、私が心がけたのは、とにかくお金をかけずに良い店をつくることでした」
少しでも商品の良さが伝わるようメニューの表現には自ら手を加えた。各店舗をこまめにまわりスタッフとの信頼関係構築に努め、ひたすらミーティングを繰り返し現場の声を聞き、改善点を探る。またリニューアルにはとりわけ力を入れた。
「百貨店や商業施設のテナントは定期的にリニューアルを求められます。私はそれを、陳腐化を回避する大きなチャンスだと考えました。デザイナーと相談しながら米国で学んだ店舗づくりの理論を実践したのです。それまではどちらかというと鏡や、すりガラスを多用したスタイリッシュな店舗が多かったのですが、木材をメインにした10~20年後に味の出てきそうな内装に変えていきました」
こうした地道な努力が実り、中野里社長が手がけたリニューアル店舗の売り上げは軒並み前年比増を記録。確かな実績を背景に経営統括本部長、副社長と昇進を重ねた中野里社長は、いよいよ金融機関との交渉に着手した。債権放棄を含む事業再生を実行するためだった。リニューアル店舗の売り上げ増は、多額の負債を前にしては焼け石に水だったのである。
「すったもんだで1年ほど粘り強く交渉した結果、債務を2分の1に圧縮することで決着がつきました。その代わり中野里一族の財産はすべて手放し、父が経営責任を取って退任することに。こうして32歳で4代目としてのれんを継ぐことになったのです」
新任の中野里社長は、5カ年の事業再建計画に早速着手する。計画の柱は既存店の価値向上だった。回転ずしマーケットでの戦いを回避し、より高級感のあるすし店を求める顧客層をメインに据えたのである。同時に間接経費の徹底的なそぎ落としなどによって筋肉質にすることも掲げた。
経営改善はまずお金のかからない接客方法の見直しや清掃の強化などの「小改善」から始め、メニューや器の変更などの「中改善」にステップアップし、余裕が出てきた段階でリニューアルや新規出店などの「大改善」に取り組むプロセスを踏んだ。店舗の視認性の優劣から足を踏み入れたときの雰囲気、店舗内の清潔感、接客対応……膨大な数のチェック項目に中野里社長自らが評価を下し、トップダウンで各店舗に改善点を指示する。スクラップ・アンド・ビルドによる利益率の改善効果もあり、徐々にキャッシュフローが増加していった。
「多店舗展開では、5店舗を集めても繁盛店1店舗にかなわないということは珍しくありません。このときのスクラップ・アンド・ビルドで、同じメンバーなのに店舗が変わっただけで利益が5倍になったこともありました。居抜き物件をコツコツと探したことも営業利益率の向上に大きく貢献したと思います」
エリア戦略の再構築と店舗それぞれの立地条件や客層に応じた繊細な店舗づくりが奏功し、同社は経営危機を脱する。「財務体質改善が最大の経営課題だった就任後の10年間」(中野里社長)をなんとか乗り切ったのだ。
「修行3年」を「研修3カ月」に
そして中野里社長は2017年、長年温めてきた構想を実行に移す。「3年間の修行」を「3カ月の研修」に短縮する自前の職人育成プログラム「玉寿司大学」の開講だ。
「すし職人を志す若者が少なくなっているのが業界全体で大きな問題となっています。昔ながらの徒弟制度のままでは若いすし職人が日本から消えてしまうことも懸念されます。そこで当社は、現場の職人の協力を得ながら独自カリキュラムを開発し、新入社員を現場に出さず徹底的に技術や接客を教える100日間の研修制度をスタートさせたのです」
カリキュラムは調理技術力、接客対応力、人間力の3分野で組まれ、1時限目はアナゴ、2時限目はコハダ、3時限目はマグロといった具合に体系的に職人技術を学ぶことができる。
研修生各自が設定した目標に対する到達度で評価を行うのが特徴で、現場に配属された後は定期的にフォローアップ研修を行う。すでに第1期生がそれぞれの現場に巣立っていったが、教育の効果は絶大だという。
「研修スタジオの設置費用、現場に出さず、給与支給での100日間研修……技術力がないため材料費も多くは無駄になります。このように先行投資はかさみますが、研修を終えた1期生9人は入社後一人も離職していません。まださすがに応用は利きませんが、店長クラスの板前からは『入社2~3年目のスタッフよりもうまい』という声も聞かれたほどです」
創業100周年まで残り5年。中野里社長は、「玉寿司大学」の継続などを通じ人財の厚みを増すことを最優先課題としている。店長や経営トップになれる人財を数多く育成することができれば、「主要都市にいくらでも新規出店が可能になる」(中野里社長)からだ。財務体質強化に続き人財育成にも成功すれば、先代を超える企業規模の拡大が実現するかもしれない。
(本誌・植松啓介)
名称 | 株式会社玉寿司 |
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創業 | 1924年3月 |
所在地 | 東京都中央区築地2-11-26 |
社員数 | 約700名(パート・アルバイト含む) |
店舗数 | 31店舗 |
URL | http://www.tamasushi.co.jp/ |