経営者自らが「のぶちゃんマン」というキャラクターに扮(ふん)し、さまざまなメディアに登場する。そんな奇抜なプロモーションが受けて「家具の宝島」を一躍有名店にした滝下信夫社長だったが、行き過ぎた拡大路線はやがてリーマンショックを機に頓挫し、倒産の一歩手前にまで追い込まれる。しかし、〝のぶちゃんマン伝説〟はそこで終わらなかった──。

プロフィール
たきした・のぶお●1953年4月生まれ。立命館大学経営学部卒。剣道教士7段。1996年よりアウトレット家具専門店『家具の宝島』を立ち上げ、現在は家具のほかにパンの製造販売『京都伊三郎製ぱん』や、お酒の買い取り販売『ゴールドリカー』が好調。また、数多くの洋酒を取りそろえたパブ『お酒の美術館』も注目を浴びている。
滝下信夫 氏

滝下信夫 氏

 太い眉毛に赤いほっぺ──。私が考案した「のぶちゃんマン」というキャラクターの着ぐるみを着て接客をしたり、さまざまなメディアからの取材を受けるようになると、アウトレット家具(B家具)を販売する「家具の宝島」は大繁盛しました。その勢いに乗って、東京や九州にも出店し、2000年代半ばには全国18店舗を運営するまでになりました。さらに、引っ越し業やリサイクル事業(貴金属など)に進出したほか、05年に大阪の新世界(通天閣下の繁華街)に100円均一パンの販売店(「のぶちゃんパン」)を出店したりするなど、事業の多角化も進めました。会社の売り上げはどんどん伸びていき、当初3億円だった年商がやがて30億円を超えるまでになっていました。

 ところが08年のリーマンショックを機に、風向きが一変しました。低価格を売りにした大手家具チェーンの台頭や、ろくに経験もないのに始めたパン事業などが足を引っ張るようになり、業績はガタ落ち。マスコミ各社もそろそろ飽きが出てきたのか、急に潮が引いたかのように取材に来てくれなくなりました。客足は減少の一途で、赤字店が続出したことから結局、すべての事業あわせて46店舗ほどあった店を8店舗くらいまでに縮小しました。でも、閉店するのにも意外とお金が掛かるものなんですね。保証金の放棄や、建物の原状回復など、一つの店をたたむのに下手すると何千万円も損をしていく。会社にあるお金はどんどん目減りしていきました。

 困ったのは、金融機関への返済だった。滝下社長は個人資産を充当して、何とか息をつないでいたものの、かなり厳しい状況にまで追い込まれていた。そんなときに救いの手となったのが、「中小企業金融円滑化法」だった。当時の金融担当相だった亀井静香氏が作ってくれたその法律のおかげで、返済計画(リスケ)が金融機関に認められ、倒産という最悪の事態を回避することができたという。

 何度か、金融機関の担当者を前に返済計画について説明しなければならない機会があったのですが、そのときはできるだけ大きな声を出して、元気な社長であることを印象づけました。小学生の頃から今に至るまで剣道を続けていて、声の大きさには自信があります。借金から逃げずに立ち向かう社長を演出するうえで、声の大きさは役立ちました。でも、なかには「一生かかっても返せない金額ですね」などと冷たい言葉を投げかけて私を能なし扱いする人もいました。それでも、地元の信用金庫の方が「みんなで何とかしましょう」と、常に私の味方になってくれたのは救いでした。

 まるで出口の見えないトンネルの中を走り続けなければならないような状況で、精神的にもキツかったのですが、しばらくすると不思議と明るいニュースも飛び込んでくるようになりました。トイレ器具の不調で水浸しになってしまった店舗に火災保険が降り、何千万円ものお金が入ってきたり、大阪の貴金属店にもっていけば100万円近くは高く買い取ってくれるはずなのに、なぜかうちに金の延べ棒を持ち込んだおじいさんがいたり……。つらい精神状態が続いていた時だっただけに、うれしかったですね。

九州進出で見つけた事業モデル

 その後、復活の糸口をつかんだのはパン事業だった。パン事業が失敗したのは、本来は飲み屋街である大阪・新世界にベーカリー店を出すといった出店戦略が完全に間違っていたことに加え、そもそもパンがおいしくなかったことにも理由があった。パン職人が社内に1人もいないのに、大手パンメーカーから冷凍の生地を買ってきて、それを焼いて100円で売ればお客は来るだろうという安易な気持ちではじめた事業だったこともあり、成功するわけがなかったのだ。しかし、ある専門家のアドバイスを受けてパンの製造方法を一から見直し、「京都伊三郎製ぱん」という名前で京都市内に新たに店を出すと、徐々に売り上げを伸ばしていった。

 パン事業はずっと赤字だったため、金融機関の担当者からもそんな事業はさっさと切るべきだと言われていました。「あと3カ月で利益が出なければ、もう止めなさい」と最後通告を受けていたのですが、それが急に単月黒字になると、逆に「この事業に力を入れなさい」と言われるようになりました。また、アウトレット家具の販売事業についても2店舗にまで減らしたリストラ効果もあって利益が出るようになり、会社の業績は少しずつ黒字化していきました。

 そして、本格的な反転攻勢がはじまったのは、100円パン屋を九州地方に出店するようになってからでした。九州進出にあたっては、信用金庫が2000万円の融資をしてくれました。ふつうなら、地縁もない九州でパン事業が成功するわけがないと判断しそうなものですが、なぜか融資してくれたんです。今でも何かの間違いだったのではと思っているくらいなのですが、いずれにしてもその資金を元手に九州1号店である「京都伊三郎製ぱん・長門石店」を出すことができました。

 長門石店のある場所は、JR久留米駅から車で10分ほどのロードサイド。周囲は田んぼばかりで、「社長、こんな場所でやってもお客はだれも来ませんよ」という社員もいました。けれど、潤沢な資金があったわけではないので、以前はドラッグストアだったという郊外の居抜き物件を利用するしか選択肢がなかったのです。

 でも結果的に、この出店場所が大正解でした。京都をはじめとした関西圏はパンの消費量が多く、焼きたてパンの大手チェーン店がいくつも進出しています。ところがパンの消費量がそれほどでもない九州地区はある意味、焼きたてパンの空白地帯となっており、とくに市街地から離れた田園地帯となると、パンと言えばコンビニくらいでしか近くで買うことができない。そこに私たちが出店したわけですが、もの珍しさも手伝って、開店当初から大勢のお客さんが来てくれました。その人気ぶりが九州の地元新聞で紹介されたこともあって、パンを焼いたそばからすぐに売れてしまう状態がしばらく続き、「パンのないパン屋さん」などと揶揄(やゆ)されたりもしましたね。

 こうしたブームは最初のうちだけと思われるかもしれませんが、私たちの出店をきっかけに日常的にパンを食べるという食文化がその地域の人たちの間に根付いたことから、その後もコンスタントに買い続けてくれるお客さんが大勢いました。とくにシニア層の方にとっては、主食とおかずがいっぺんに食べられる総菜パンはボリューム的にもいいようです。しかも1個100円なら、毎日食べられる。これが1個150円とか250円となると、「週に一度の楽しみ」となるのでしょうが、100円なら毎日食べてもいいと考えてくれるのです。

 この長門石店での成功に手応えを感じ、滝下社長はその後も九州地区で出店を重ねていった。人口2~3万人の市場規模でも十分に成立するビジネスだと考え、他の大手チェーンが見向きもしない、いわゆる2等立地や3等立地に積極的に出店していった。客単価は700円ほどなので、毎日300人のお客が来てくれれば、十分に店の経営は成り立つのだ。

 過疎化の進んだ郊外地域は採算が見込めないため大手チェーンも敬遠します。しかし私たちはそんな場所に好んで出店して、地元の雇用を創出するとともに、パンを日常的に食べるという食文化を作っていることから、なかには「地方創生」に役立っていると言ってくれる人もいるんですよ。FC加盟店になりたいと手を挙げてくれる人もたくさんいて、あっという間に九州地区に「京都伊三郎製ぱん」の看板を掲げる店がおよそ40店舗にまで増えました。この先、鹿児島県や宮崎県での出店が増えることを踏まえると、最低でも九州地区全体で70店舗くらいにはなるのではないでしょうか。

100円でもなぜおいしいか

 私が言うのもなんですが、「京都伊三郎製ぱん」の100円パンは売れて当然だと思っています。本当に、「こんなにおいしいパンが100円で買えるのか」と感動してもらえるほどの商品なんですよ。よい材料を使っているのに、なぜ100円という価格で利益を出せるかというと、それは固定費を徹底的に引き下げているからです。建物の賃料を安く抑えているのもそうだし、セントラルキッチンで効率的に製造していることもコストを下げるための工夫です。

 まず原料となる粉を配合し、それをミキサーでねる。さらに大玉分割機で小餅くらいのサイズにしたうえで、マイナス4度くらいに一瞬だけ冷凍する。生地を完全に冷凍せずに、チルドの状態で各店舗に搬送するのは、そのほうが断然おいしいからです。生地のイースト菌が生きたままなので、翌日に焼いて店頭に並べてもおいしいのです。完全冷凍にしたほうがオペレーションは確かに楽なのでしょうが、それではイースト菌が発酵しないためうま味成分が出てきません。大手焼きたてパンチェーンのなかには完全冷凍にしているところが珍しくないのですが、それと比べたら圧倒的に商品力が違うんですよ。

 滝下社長が過去のしくじり(失敗)から学んだ教訓は、プロフェッショナルである社員を信頼し、仕事を任せるほうが結果的にうまくいくということだったという。「家具の宝島」を主力事業にしていた頃は、まさにワンマン経営を絵に描いたような感じで、滝下社長が右向けと命令したら、みんなが右を向く会社だった。しかし今は、それぞれのリーダーが自分たちの創意工夫で自主的に仕事をしてくれているという。おいしいパンを製造できているのも、笑顔が行き届いた接客ができているのも、突き詰めれば現場のスタッフたちが自らの意思で頑張ってくれているからなのだ。

 いまやパンの種類は150種類を超えています。顧客に飽きられないように、つぎつぎに新商品を投入するようにしています。いわば「パンのダイソー(100円ショップ)」とも呼べるようなビジネスを追求しているのですが、その好調なパン事業が牽引(けんいん)役となって、会社の年商はピーク時の半分を超えるまでに回復してきました。借金の返済も地元の信用金庫に一本化し、あと少しで債務超過を解消できるところまで来ています。

お酒の買い取りにも注力

 実は、パン事業のほかにも、今後さらに注力しようと考えている事業があります。それは、「ゴールドリカー」の名前でやっているお酒の買い取り・販売です。お酒の買い取りは、リサイクル事業の一環としてスタートしたもので、他のリサイクル店との差別化を図るために、しだいにお酒に特化していくようになりました。専門特化することで〝目利き力〟を高める戦略は当たり、全国規模での買い取りを実現しています。むかし海外旅行に行ったときに非課税で買ってきた洋酒を、自宅のサイドボードに眠ったままにしている家庭は多く、そうしたお酒を全国から集めて、京都三条烏丸にある「お酒の美術館」というバーで提供したりもしています。今後はこうしたお店を全国各地に出していき、新たな事業の柱に育てていきたいと考えています。

 それと、もう一つ私には大きな夢があります。かわいくイラスト化した「のぶちゃんマン」を、ポケモンやマリオに並ぶ海外でも有名なキャラクターにしていきたい。のぶちゃんマンは小学5年生で、どちらかといえば内向的な性格。逆境に見舞われたり、失敗もよくするけど、必ず起き上がってまた歩き出す。そんなキャラ設定をしているのですが、まさに私の分身ですね。いじめなどで悩んでいる子どもに勇気を与えるのぶちゃんマンを通じて世界平和を実現する──それが私の壮大な野望なんです(笑)。

(本誌・吉田茂司)

【沿革】
1988年 京都市壬生に(株)タキシタ家具を設立
2000年 「のぶちゃんマン」のキャラクターが誕生
2003年 (株)タキシタ家具から(株)家具の宝島に社名変更
2004年 (株)のぶちゃんマンに社名変更
2008年 リーマンショックを機に業績悪化
2011年 「京都伊三郎製ぱん」としてパン事業を再スタート
2014年 九州第1号店となる「長門石店」を出店
会社概要
名称 株式会社のぶちゃんマン
設立 1988年5月
所在地 京都府京都市中京区壬生馬場町37番地
売上高 15億円
社員数 236名(うちパート139名)
URL http://www.nobuchanman.com/

掲載:『戦略経営者』2017年12月号