東京・新宿から小田急線で約1時間の鶴巻温泉(神奈川県秦野市)。温泉街を代表する老舗旅館「元湯陣屋」の4代目社長を務める宮崎富夫氏がいま、業界内で注目の的となっている。旅館業に特化したクラウド型の統合業務システム「陣屋コネクト」を自社開発し、倒産の危機を見事乗り切ったその手腕に迫った。

プロフィール
みやざき・とみお●慶應義塾大学大学院理工学部修士課程修了。本田技術研究所にて7年間次世代燃料電池の開発に携わる。2009年、陣屋の代表取締役社長就任。2012年、陣屋コネクトを設立。趣味はドライブ。映画監督の宮崎駿氏は叔父にあたる。
宮崎富夫氏 元湯陣屋社長

宮崎富夫 氏

──創業90年を超える老舗旅館とお聞きしました。

宮崎 元湯陣屋旅館は大正7年からこの鶴巻温泉で営業しています。もともとは鎌倉幕府四天王のひとり和田義盛公の陣地跡地を三井財閥が開発した旅館で、私の祖父が戦時中に購入し経営を承継しました。囲碁将棋のタイトル戦が行われることで全国的な知名度も高く、昭和初期から数えると300局前後の対局実績があります。

──2009年に4代目として社長に就任されたそうですが、旅館を継ぐのは想定外だったとか。

宮崎 はい。車好きだった私は大学院卒業後にエンジニアとしてホンダに就職し旅館の跡取りになるつもりは全くありませんでした。ところがちょうど2人目の子どもが生まれたときに父が他界、さらには女将で社長をしていた母親も病に倒れるという不幸が立て続けに起こったのです。経営状態も最悪で、以前は5億円ほどあった売上高が3億円を切るまでに落ち込んでいたことも初めて知りました。そんな危機だったので、旅館を手放すことも検討したのですが、時はまさにリーマンショックという最悪のタイミング。仮に売却が成功しても借入金の返済も担保から抜けることもできないことがわかり、結局私が経営を引き継ぐしか選択の余地が残されていなかったのです。償却前利益はマイナス7000万円、借入金は10億円と、売上高の規模からするとありえないような額の赤字と借入金を抱えている絶望的な状況でした。

──大変な時期の事業承継だったわけですね。

宮崎 とにかく経費の管理がずさんでした。実は結婚式の有無や日帰り客の多寡によって月ごとにかなり原価率は変わるのですが、商品タイプ別の原価管理がなされておらず、その変動の原因すら把握することができなかったのです。ノートに各自が付ける出勤簿を月末で締めるまで勤務時間の実態を把握することもできず、閑散期には人件費率が50%を超えたこともあります。

──業務面ではどこを改善すべきだと感じましたか。

宮崎 たとえば情報共有のもれによるトラブルですね。お客さまの宿泊情報を台帳に記入した紙をスタッフに配布していたのですが、当日になって「布団はあげないでそのままにしてほしい」と要望があったとします。その変更内容はホワイトボードに書き込まれますが、スタッフ全員が見るとは限りません。結局情報の伝達がうまくいかず、お客さまから「伝えたのにちゃんとやってくれないじゃないか」とクレームになってしまうのです。そうした事態を回避するため昼礼、夕礼などの打ち合わせを頻繁に行ったり、調理場や玄関係、仲居さんなど複数の場所に電話連絡するルールを徹底するなどの対策をとっていましたが、これらははっきりいって非生産的な業務。こうした無駄をできるだけ減らしたいと強く思いました。

原価率の大幅削減に貢献

──そこでITの活用が必須という結論に至ったわけですね。

宮崎 一番の目的は仕事の効率化でしたが、それだけではありません。PDCAサイクルを高速化することもねらいの一つでした。その日の売り上げや人件費が瞬時にわかれば、「残業が多くなってきたから今日は早めに上がってね」などといった的確な労務管理が可能になります。また同時にCRMの仕組みを導入し、ウェブサイトやSNSを活用したリピーター獲得を目指したいと考えました。

──既存システムの導入ではなく、自社で開発した理由は?

宮崎 確かに、大手ベンダーをはじめ業界に特化した基幹システムはたくさん販売されています。しかし「クラウドなど最新トレンドに対応しているか」「ハードやOSを選ばない仕様になっているか」「自由なカスタマイズは可能か」などといった選定のポイントを明確にした結果、予算の範囲内でそれらの条件をすべて満たすものは存在しなかったのです。顧客管理や予約管理を行う業務システムは旅館経営のコアの部分なので妥協はできません。ましてや私の体にはホンダの「たいまつは自分の手で」というDNAが息づいていますから、「ないなら自分でつくってみよう」と決断したのは必然だったと言ってよいでしょう。さすがにプラットホームはセールスフォース・ドットコム社のものを利用しましたが、縁があってシステムエンジニアを1人採用できたこともあり、他のシステムとの連携を前提とするのではなく、必要となる機能を全部のせてしまおうという方針でシステムを開発することができました。ですから「陣屋コネクト」では、予約管理、顧客管理、メール掲示板・スケジュール管理・ファイル共有、勤怠管理、アンケート集計機能、原価管理・会計処理、売り上げ分析機能などの機能がすべてそろっています。

──どのように業務が変わったか教えてください。

宮崎 2010年から運用を開始しましたが、仕事のやり方は大きく変わりましたね。たとえば「A2版手書きの予約台帳から転記して毎日A4版の予定表を作成→予定表をコピーして前日にスタッフ全員に配布→当日の変更内容やアレルギー情報などをホワイトボードに記載」という一連の確認作業をする必要がなくなりました。システムを使えば、タブレットなど各自が持っているデバイスからクラウドを通じ直接情報を確認することができるからです。しかもいつ、誰が、何を変更したのかという履歴が残るため、対応者の責任感も向上します。

──ソーシャルメディアもフルに活用されているとか。

宮崎 業務連絡はすべて社内SNSに一本化しました。今では週2回のパートさんも出勤したらすぐにログインして勤怠ボタンを押し、その日の伝達事項をチェックしています。その情報を誰が閲覧したか管理者がチェックできますから、連絡事項だけの会議はすべて撤廃することにしました。スタッフ全員がこの仕組みに参加することで、「言った」「言わない」「聞いていない」というトラブルが解消し、情報共有による組織の一体感が向上しましたね。

──とはいっても高齢のスタッフも多い仕事場です。全面IT化に慣れない従業員もいたのでは?

宮崎 私や女将が率先してシステムを使い、スタッフが積極的に使えるような雰囲気を意識的に作る努力をしました。見積書の承認や発注・修理依頼など各種書類の決裁を社内チャットでしか受け付けないような運用に変えたほか、会社の経営方針などを紙で配付するようなこともやめました。とくに一番効いたのは勤怠管理ですね。これをしなければお金がもらえないわけですから、高齢者でも一生懸命やり方を覚えます。最初はログインに10分かかるスタッフもいましたが、「ATMでお金を下ろせるなら大丈夫」と励ましながら指導した結果、すべての従業員が陣屋コネクトに参加して仕事をする環境を達成できました。

──収益に与えた影響は?

宮崎 たとえば料理では商品一つ一つに想定の売り値を決め、食材はニンジン1本の値段から管理するよう原価管理を徹底しました。それらの数字を調理場スタッフが自ら入力しチェックすることで売り上げや仕入れの想定値と実績値のずれを常に意識するようになった結果、料理の原価率はなんと40%から30%に減少。戦略的にブライダル事業を強化したことなどが実を結び、導入後5年で売上高が4・3億円まで急回復したこともあり、2014年には税引き前利益で8500万円を計上するなど現在は黒字が定着しています。

──人件費も大幅に減ったそうですね。

宮崎 就任当初は140人いたスタッフの数は約半分になりました。人件費率は46%から30%に大幅に低下しましたが、ほとんどが自主退職や自然減です。効率化で無駄な業務を減らした効果もあり、一人一人のスタッフがお客さまと接する時間は増えたと思います。さらに5年間の営業実績を分析した結果、火曜と水曜がどんなキャンペーンをやっても稼働が上がらないことが分かったので、昨年からその両日を定休日にしたことも人件費の減少につながりました。

──宿泊業では週休2日制は珍しい。

宮崎 業界内でもずいぶん話題になりましたが、月曜日と木曜日に予約がうまく分散し、日帰りと宿泊客の数字はあまり影響を受けませんでした。年間1600万円の人件費減少になりましたが、その代わりスタッフの正社員化を促進しています。正社員比率が増えれば、接客や料理の品質も確実に上がりますからね。また、首都圏で庭園があり、定休日が連続2日あるという条件がテレビや映画での撮影で非常に適しているということも分かり、ロケ利用という思わぬ収入源もできました。

システム通じ旅館組合結成も

──自社で大きな成果を上げた「陣屋コネクト」ですが、現在では他社への提供も行っています。

宮崎 チェーンホテルや高級旅館、レストランやペンションなど現在全国120以上の施設でお使いいただいています。初期設定費10万円にユーザーライセンスで1月当たり3500円という価格設定で、売り上げは今期で6000万円ほどを見込んでいます。この3500円という料金はたとえば当社のように70人の場合、約24万円になりIT経費としては少し高いかもしれませんが、業務効率の向上を考えると正社員1人分以上の効果は確実に上げていると思います。旅館やホテル業というのは地域の文化です。その文化を守り続けている地域の旅館経営者をITを通じて応援する気持ちで、年輪のように少しずつ輪を広げていくビジネスができればと考えています。

──今後の戦略は?

宮崎 「陣屋コネクト」を使っている旅館やホテルが集まって新しいコミュニティーを形成できないかと構想を練っています。1社ではできないビッグデータの分析をしたり仕入れ先の情報共有・共同購買、稼働率など経営情報を蓄積したりする新しい旅館組合を結成するようなイメージですね。
 また最近話題になっているモノのインターネット化の活用も面白いですね。お風呂の温度や清掃頻度の管理、各部屋のエアコン操作の最適な制御がセンサーとクラウドシステムによってもっと効率化できるかもしれません。こうした取り組みを陣屋で実験し、その結果をシステムの改良に反映させるサイクルをうまく回していきたいと思っています。

(インタビュー・構成/本誌・植松啓介)

掲載:『戦略経営者』2015年2月号