──平成10年、破綻寸前のはとバスの社長に就任し、わずか4年で見事に再建(累損解消、復配)に成功されたストーリーはわれわれにとって衝撃的でした。就任時はどのような心境だったのでしょう。

宮端 私はもともと、東京都庁を退職後、東京都地下鉄建設株式会社で地下鉄建設に携わっていました。はとバス社長に就任する平成10年の夏まで、2年半後に控えた大江戸線全線開通に向けて全力で指揮をとっていたのです。それがいきなり都庁に呼び出されて、青息吐息のはとバスを「立て直してくれ」ですからね。正直貧乏くじを引かされた気分でした(笑)。

──確か、東京都が筆頭株主だったですよね。

宮端 そう。いわゆる天下りです。これはもう周知の事実で、もちろん社員も知っていました。「どうせ腰掛けだろ。何しに来たんだ」という雰囲気でしたよ。でも僕としては任された以上最善をつくそうという気持ちで、まずは定石どおり合理化に取り組みました。なにしろ、当時のはとバスは4年連続赤字を継続中で、売上高130億円に対して借入金が70億円。年間7回の借り換え融資を受けていました。銀行からの融資がストップしたら終わり。当時は金融危機、貸し渋りの時代ですから誰が見ても破綻寸前です。とにかく合理化して赤字から脱却するしか道はない。5年連続赤字の企業など存在価値がないとみなされても仕方ありませんからね。

──役員も総取り換えで、再建へとスタートされました。

宮端 9月末の株主総会では、1年目に単年度黒字化を果たせなければ役員ともども責任をとって辞めると宣言しました。10月から翌年の6月まで実質9カ月しかないにもかかわらずです。その発言は一部株主の批判を浴び、また、実際に何の成算もありませんでしたが、とにかくトップが退路を絶って本気を見せなければ社員もついてこないと考えたのです。

賃金カットもやむなし

──で、まず何を?

宮端 就任2カ月前に再建の基本方針を立てました。「全社員の意識改革」「徹底した合理化」「サービスの向上」です。また、これとは別に、初年度黒字化のためのより具体的な緊急対策をつくりました。「昇給ストップ」「過去2年赤字路線・事業の廃止」「乗務手当を拘束時間からハンドル時間へ」「自社整備工場の有効活用」「55歳役職定年制」の5つです。

──厳しいですね。

宮端 しかし、その後シミュレーションしてみると、これら対策の効果が出てくるのは半年~1年後なんですね。困りました。そこでより即効性のある対策が必要になった。リストラをやる気はなかったので、すると残るのは賃金カットです。社長である私が3割、役員2割、社員1割の賃金カットを打ち出したのです。

──反発もあったでしょう。

宮端 それはありました。ずいぶんプロパーの役員や社員から怒られましたよ。しかし、経営再建はスタートダッシュが肝心。会社が潰れたら元も子もありません。私が賃金カットという最終ともいえる厳しい手段をとったおかげで、社員の間に「本当に潰れるのかも」という危機感が共有され、労働組合の委員長にも合意してもらいました。はとバスというのは、東京都やJTBなど行政や大企業が株主で、いわば親方日の丸的な意識が蔓延していたのですが、そんなのんびりした雰囲気を吹き飛ばす一定の効果はあったと思います。年間にして約5億円の削減。前年の赤字が8億円ですからかなりの効果です。ちなみに、この年は3億6000万円の経常黒字を計上しています。

──経営方針も新たに作られたとか。

宮端 「お客さま第一主義」「現場重点主義」「収益確保至上主義」の3つです。それまでは「はとバスあってのお客」とあぐらをかき、また、現場を軽視して営業本部が浜松町近くのビルにオフィスを構えて大きな顔をしていた。そのため、平和島の本社敷地にプレハブ棟を新築して乗務員の控え室を広くて明るいものにし、その後、営業本部を移転・吸収しました。現場は、運転手とガイド、添乗員などの乗務員とお客さまとの真剣勝負です。それまで、乗務員を「末端」と呼んでいましたが、実はかれらこそが「先端」。ここを大事にしないと商売になりません。考え方がまるで逆だったのです。組織図も、一番上にお客さま、それから現場、営業・スタッフ部門、管理部門とし、一番下で全社員を役員と社長が支えるという逆三角形型にしました。

──収益確保至上主義とは?

宮端 売り上げ至上主義をやめ、赤字路線や事業を廃止することです。まずは減収増益でかまわない。たとえば、私が就任する3年前から、専用車両4両を導入した新路線がスタートしていましたが、赤字だったので即座に廃止しました。バスは売却です。もちろん異論は出ましたが、まずは黒字化してから増収増益という本来の姿に持っていこうとしたのです。

「1杯のお茶」に教えられる

──その年の10月から社長に就任されて当初はいかがでしたか。

宮端 最初はいろんな意味で難しかったですね。意識改革を必死に訴えても誰も聞いてない。社員を集めて合理化を要請しても「経営者は4年間何をやっていたのか。経営責任はどうなっているのか」と返ってくる。「俺のせいじゃない」などという思いも湧き上がってきましたが、それを言ってしまったら終わりです。結果的にはこの質問に答えられなかった。

──どうされたのですか。

宮端 申し訳ないと謝りました。二度とあなたがたとあなたがたの家族にこんなつらい思いはさせないから、今度だけは協力してくれと。そして私は謝りながらあることに気づきました。
 正念場や土壇場、修羅場といった場をくぐりぬけなければ経営者にはなれないのではないかということです。当時800人いた従業員には2000人の家族がいる。それから50年間ご愛顧いただいたお客さま、そしてホテルや飲食店といった取引先、さらに株主。この4者に対して責任を持つのが経営者なのです。そう気づいたとたん、震えましたね。眠れなくなりました。9カ月後に黒字にできなかったらどうしようかと……。

──サービス面の向上にもご苦労があったとか。

宮端 はい。社員の前で合理化と同時にサービス向上を、と訴えても誰も聞いていません。社員は下を向くだけ。そこで、「絶対に怒らないから私の言うことが分からない人は手を上げて」と頼むと、なんと約3割が手を上げたのです。3割が手を上げたということは半分以上が分からないということです。ようするに私のことをひとりよがりの「腰掛け」だとみんな思ってたんですね。有言不実行の化けの皮がはがれたのです。

──口だけで中身がないと?

宮端 そうです。とはいえ私自身としては、とにかく社員に本気を見せるために行動を変えていくしかない。まず、女房と月に3回、はとバスに乗ることにしました。2人で1万6000円。すると見えてくるんですね。それが1人8000円の値に相当するサービスかどうかが。とくに帰りのバスのなかは情報の宝庫です。どこのホテルの食事がああだ、乗務員の対応がこうだとね。サービス業の原点は経営者自らがお客になることだと実感しました。また、社長室を出て大部屋に入り、社長専用車を共用車に変更し、通勤も電車とバスにしました。通勤時間は往復で約3時間です。さらに、社長に直訴できる「お帰り箱」という目安箱のような仕組みをつくり、記名の意見には必ず私が返事を書き、匿名には掲示板に貼り出して答えました。

──社員の態度は変わってきましたか。

宮端 徐々にですね。最後は私自身が現場に出ました。土日祝日には、朝の7時に浜松町のターミナルに行き、8時半まで主催ツアー(募集型の旅行)バス見送りをしました。一台一台車内に入ってあいさつするのです。さらに9時からは東京駅に移って今度は定期観光バスの見送りです。ゴールデンウイークなどは130台ものバスに乗り込むことになります。最初はお客も乗務員もきょとんとしてとまどうばかり。しかし3カ月たったあたりから変わり始めました。ある日、僕がいつものように一台一台乗り込んで汗びっしょりになっていると、運転手とガイドが「社長! 今日も1日がんばってきます」と。これはうれしかったですね。彼らを路頭に迷わすわけにはいかないと思いました。

──サービスに関していえば、社長自身、社員から誤りを気づかされたことがあったとか。

宮端 ある会議でガイドから「車内で出すお茶の葉の質が落ちたので肩身が狭い」という意見が出ました。あわてて横にいたバス事業の責任者に聞いたら、経費節減の一環だと。社長失格ですよね。決定的な「気づき」でした。経費削減に条件をつけるのを忘れていたのです。どんなに苦しくても顧客満足度を落としたらダメ。そんな基本的なことさえ分かっていなかった。「申し訳ない」とガイドに謝って、ただちにお茶の葉の質を従来以上のものにしました。

大胆な設備投資でCSアップ

──その後はサービス向上にまい進されます。

宮端 次に、定期観光と主催ツアーの約300コースを徹底的に見直しました。食事の品質を上げ、値段に見合わないと判断したコースを1割削減しました。安かろう悪かろうからの脱却です。さらに新車(4700万円)を10台購入。車両こそサービスの原点ですからね。翌年から毎年10台、このなかには天井までガラス張りのものや、座席ゆったりで新幹線のグリーン車並みの28人乗り8000万円のプレミアム車両も含まれていました。必要なところにはけちけちせずにお金をかけることで、お客さまをひきつけたのです。

──社員教育はどのように?

宮端 1年目は従業員全員にCS研修を行いました。20人ずつ40回です。1000万円かかりました。2年目からはCS研修は新入社員だけで、ほかは全社員サービス研修と銘打って「サービス日本一」になるためのグループ討議を行いました。そこでは、さまざまなアイデアが形になりました。たとえば、運転手から出た出入り口の踏み台(1台50万円)。これは後にはとバスのトレードマークになりました。また、ガイドの提案による「アイポイントの上昇」。つまり、床を5センチ上げて眺望をよくしたのです。これも1台200万円かかりましたが、好評でした。

──合理化の一方で、大変な設備投資をされたのですね。

宮端 大事なのは価格と価値の兼ね合いです。安売り競争に巻き込まれたら負け。「はとバスはちょっと高いけど、車両や乗務員が良いし、食事もおいしい」とお客さまに言わせることが必要なのです。ちなみに私が就任して3年後には旅行新聞新社主催の「プロが選ぶ観光バス」で1位に選ばれました。

──従業員の方々も喜ばれたでしょうね。

宮端 賃金カットは行いましたが、初年度は一時金を出し、さらに従業員の家族には、私の直筆の手紙を添えて1万円の商品券を贈りました。わずかですが、従業員にも報うことができたのです。そして3年後に賃金カット分を元に戻しました。そして累損一掃、借金を半分にして復配した後、平成14年の9月に私が退任する際、社員代表から花束をもらい、こういわれて驚きました。
 「初年度に赤字を免れた時にはほっとしました。でも実は、本当にやる気が出たのは、社長の手紙と1万円の商品券でした。金額じゃないんですよ。役員も社員もパートも平等に扱ってくれた気がしたのです」
 800人の従業員の家族へのたった800万円の商品券には、1億円、いやそれ以上の価値があったということです。

プロフィール
みやばた・きよつぐ 1959年、東京都入庁。総務局総合対策部長、交通局長などを歴任後、1994年に退職し、東京都地下鉄建設株式会社 代表取締役専務に就任。1998年、株式会社はとバス代表取締役社長に就任。2002年9月に退任後、2004年まで同社特別顧問、2007年まで東京都交通局経営アドバイザリー委員を歴任。現在、「三やか」(心おだやか、体すこやか、行いさわやか)人生を貫くための生き方アドバイザーとしても活躍中。著書に『はとバスをV字回復させた社長の習慣』(祥伝社)がある。

(インタビュー・構成/本誌・高根文隆)

会社概要
名称 株式会社はとバス
設立 1948年8月
所在地 東京都大田区平和島5-4-1
売上高 162億円(2014年6月期)
社員数 1012名(2014年6月現在)
URL http://www.hatobus.co.jp/

掲載:『戦略経営者』2014年12月号