東日本大震災への対応
会員からの支援を心の支えに事務所継続の覚悟を決める
菅原会計事務所 菅原弘志(東北会岩手県支部)
取材日:平成23年6月30日(木)
菅原弘志会員
岩手県最南端の沿岸に位置する陸前高田市では、巨大津波に耐え抜いた一本の松が復興のシンボルとして市民の心の支えとなっているという。陸前高田市唯一の税理士として約40年にわたり会計事務所を経営してきた菅原弘志会員も、自宅兼事務所を津波で失いながら関与先と地域住民のため力強く歩き出した。
黄色い土煙で異常事態を察知
──地震が起こった時の様子をお聞かせください。
以前の事務所(上)と
津波で跡形もなく流された現場(下)
菅原 ちょうど確定申告の期限が間近だったので、巡回監査中の職員1人を除き全員事務所にいて、申告業務をしていた時でした。
「揺れが大きいな」とは思いましたが、事務所内の被害としては少し物が落ちた程度でそれほどひどくはなく、書棚やロッカーが倒れるということもなかったんです。
津波のことは全く思い浮かばなかったですね。もちろん三陸沖には何度も津波が来ており、実は3月11日の何日か前にも震度5くらいの比較的大きな地震がありました。その時の津波が60㎝程度だったので、今回来たとしてもせいぜい1~2mくらいで、沿岸から3㎞以上内陸の事務所までは届くわけがないと高を括っていました。地震や津波に慣れてしまっていたというのも影響していたのかもしれません。
──だからすぐに避難しなかったのですね。
菅原 15分くらい事務所内を片づけて職員を全員帰宅させてから、避難所になっている近くの小学校に向かう準備をはじめました。地域の防災係をしていたので、避難所であることを示す旗を持って立っていなければならなかったのです。
寒かったので手袋をしてズボンを二重に履き、ラジオと携帯電話を持って出かけようとしたら、肝心の旗が見つからず探していたんです。すると、事務所の職員でもある娘が、海の方向に黄色い土煙が立ち上っているのに気付きました。津波が民家を破壊しながら迫ってきていたんです。
事務所から津波の様子が見えたわけではないのですが、その土煙を見て異常な事態が起こっていることを察しました。そのうち数十メートル先の電柱が倒れ濁流も見えたので、慌てて走って逃げました。逃げる途中で振り返ると、事務所が倒されているのがわかりました。
逃げながら近所の人にも逃げるよう呼びかけたのですが、結局大勢亡くなったそうです。私と同じで、誰もここまで津波が来るとは思ってなかったんですね。私はたまたま避難所に行かなければという義務感から外に出たので運が良かった。結局、陸前高田市では行方不明者を含めておよそ2000人、人口の約1割が亡くなりました。
──ご親族や職員さん、関与先さんの被害状況は。
菅原 市街地にある市役所や高校が避難場所に指定されていたのですが、そこも津波に飲み込まれたため、親戚が何人か亡くなりました。また職員の1人が、帰宅途中に市街地で津波に遭遇し行方不明になってしまいました。
関与先は法人と個人、年1顧客を全部合わせると約200件ありましたが、社長が亡くなってしまった会社も10数社あります。一関など一部の関与先以外はほぼ被災しています。
職員は、一度解雇する形をとれば退職金を出せるし失業保険もすぐに出ます。その上で落ち着いたら再雇用しようと思ったのですが、職員が「解雇はしないで欲しい」と要望したので、現状のまま雇い続けることにしました。
自宅は事務所と同じ建物だったので当然住む場所もなくなってしまい、しばらく近くの公民館で避難生活を送りました。事務所があった場所に毎日通って「背広がないかな、あればポケットの中にへそくりがあったはず」(笑)と、何か残っていないか探しましたが、やはりすべて流されてしまっていました。
奇跡的にサーバーが見つかり再開を決意
──被災直後はまず何をされましたか。
菅原 まずは親戚や関与先など関係者の安否確認が最優先でした。携帯電話を持って外出したのが幸いし、電波が繋がるようになってから1件ずつ電話をかけて状況を確認すると同時に、自分が無事であることを伝えました。
事務所の再開については、実は当初かなり落ち込んでいたので、事務所をたたもうかと考えていたんです。
──なぜ再開しようと思い直したのでしょうか。
震災から4か月経っても瓦礫が残っている
陸前高田市街地
菅原 いくつか理由はあるのですが、大きな要因は2つです。
1つ目はサーバーが見つかったこと。関与先の財務情報をはじめとする重要なデータが全て入っていたので、職員総出で1週間ほど探したけれど見つからず、諦めかけていたところでした。
それが3月25日に、水沢から支部長の佐藤利行先生(税理士法人あおば会計)が様子を見に来てくれた時「ダメもとでもう一度探してみよう」と言ってくれたので最後のつもりで探してみたら、佐藤先生が事務所から7、8m海側の道路でサーバーを見つけてくれたんです。ちょうど道路が通れるように瓦礫を撤去したようで、その下にあったんですね。本当に奇跡的なタイミングでした。
もちろん水に浸かっていたのですぐ製造元の東芝に送って復元を依頼したところ、約1カ月後に「データは無事です」と連絡が入りホッとしました。
2つ目はTKCからの支援です。被災直後から盛岡センターの後藤センター長、担当のSCGさんが来てくれたし、センターの社員はその後も1週間に1回は来てくれて、様々な情報を提供してくれました。
また義援金や援助物資だけでもありがたいのに、東北会の植松会長には「何か足りないものはないか」と声をかけていただき、仙台のある先生からは発電機を3台も送っていただきました。TKCの皆さんには本当に温かい支援をいただき、このまま事務所をやめてしまっては「義援金だけもらって逃げたな」と言われてしまうので(笑)、今は死ぬまで事務所を続ける覚悟でいます。
連休明けから巡回監査を再開
──事務所の通常業務はいつ頃再開できたのでしょうか。
倉庫を改装した仮設事務所の扉には
「がんばっぺし」のポスターが
菅原 サーバーも見つかったし生活も少し落ち着いたので、4月に入ってから業務を再開しようと動きはじめました。最初はプレハブの「レンタル事務所」を建ててもらおうと思ったのですが、高台に倉庫があったのでそこを改装して仮設事務所にしました。
その時も盛岡センターのSCGが毎週来てくれて、サーバーを運んだりPCでインターネットが繋がるように設定してくれたので、非常に助かりましたね。
そして期限は過ぎていましたが、サーバーの情報を基に相続税の申告をすぐに提出し、現在も3月決算法人の申告業務で非常に忙しい状態です。
──関与先の社長さんはどのような様子ですか。
菅原 やはり全てを失ったショックで、これを機会に廃業したいという社長がほとんどでした。特に後継者がいない社長や、地震保険がおりて商売をしなくても食べていける人は尚更です。
でも様々な政府による支援情報、例えば無償で仮設店舗を借りられたり、助成金を受け取れるなどの情報を提供すると、先の見通しが立ってくるんですね。そうするとだんだん元気が出てきて、今では早く商売を再開したいと意欲を持っている社長が多いですよ。
民宿を経営していた80歳の社長も、何もかも流されたので当然引退するだろうと思っていたら「身体は元気なのにやることがないから、早く働きたい」とやる気満々です。
あとは、社長が亡くなってしまった会社の遺族からの相談が多いですね。資料が何も残っていない状態なので、残された遺族の方から「借金はどうなっているのか」「保険はちゃんとおりるのか」など様々な質問を受けます。そうした質問にも、サーバーに残っていた情報のおかげで対応ができました。
──巡回監査の状況は。
菅原 5月の連休明けから、できる関与先から再開しました。
まずは政府の支援策から、その関与先が受けられるものを情報提供したり、「従業員は1回解雇し、様子を見ながら再雇用するとよい」などの指導をしています。
あるいは、ある水産関係の関与先の場合、津波で機械が壊れてしまったので新たな設備資金を借り入れることになり、銀行に提出する決算書を準備しました。
ただ、こうした関与先はごく一部です。ほとんどは事業が再開できていない状態なので、いくら事務所の体制が整っていても巡回監査をすることができません。そうした関与先には、情報提供を中心に支援を行っています。
みんなが安心して働ける体制作りを
──今後の事務所経営についてお聞かせ下さい。
菅原 実は震災の前から事務所の承継について考えていました。私も年なので、万一のことがあったら関与先にも職員にも迷惑をかけてしまいます。
ある地方銀行のM&Aセンターの担当者が何度か来て、「他の税理士さんに継いでもらってはどうか?」という話もいただきました。でもずっとTKCのやり方でやってきたので、そうして培ったノウハウをTKCと関係ない税理士にはやっぱり任せられないなと。
TKCに入会し、様々なことを教わって、それが精神的な基礎になっています。私が少しでも元気なうちに、同じTKC会員同士で税理士法人を作るなどみんなが安心して働ける体制を整え、死ぬまで働きたいというのが今の気持ちです。
一丸となって関与先の支援に取り組む菅原会員と職員のみなさん
(TKC出版 村井剛大)
仙台の会計事務所で勤務後、昭和46年に税理士登録し、故郷の陸前高田市で開業。昭和49年TKC入会。職員数9名。68歳。
菅原会計事務所
住所:岩手県陸前高田市高田町字鳴石88-12
電話:080-1666-7244
(会報『TKC』平成23年8月号より転載)