「食育」「地産地消」という言葉はいまでは普通に使われるが、1980年代からこれらの概念を先取りして実践してきたオトワ・クリエーションの音羽和紀社長。いまや日本でも有数の料理人兼経営者だが、その半生は尋常ではないバイタリティーに彩られている。

プロフィール
おとわ・かずのり●1947年栃木県宇都宮市生まれ。大学卒業後、渡欧。ドイツのキール、ケルン、スイスのジュネーブの名店で技をみがき、1974年に「厨房のダビンチ」と言われたアラン・シャペルに師事。のちに「ミシェル・ゲラ―ル」へ。帰国後は地元の宇都宮でフレンチレストランを開業。「食育」「地産地消」を早くから実践したパイオニアである。2010年には農林水産省の顕彰制度「料理マスターズ」を受賞。
音羽和紀氏 オトワ・クリエーション代表取締役

音羽和紀 氏

 昨秋、日本ではそれまで13店舗(現15店舗)のみ加盟が許されていたホテル・レストランの世界的会員組織「ルレ・エ・シャトー※」に選ばれた栃木・宇都宮のオトワレストラン。オーナーシェフの音羽和紀氏は、23歳で単身欧州にわたり、「厨房のダビンチ」といわれたアラン・シャペル氏のもとで学んだ経歴を持つ。そんな正統派フレンチシェフである一方、帰国後は地元宇都宮市での開業にこだわり、1981年からすでにいまで言う「地産地消」や「食育」に関わる活動を展開。地方都市から、世界に通じる料理・サービスを提供し続けてきた。2010年には、それらの活動が評価され、農林水産省の「料理マスターズ」を受賞している。音羽氏は述懐する。

「故郷に戻るつもりはなかったのですが、ヨーロッパの人たちは、たとえ片田舎でも地元を誇り、愛する気持ちがとても強い。故郷のなにもかもを本気で大切に思っているんですね。そしてあるときふと気づいたのです。自分は何をやってたんだと……」

 自らに地元愛を発見した音羽氏。宇都宮での開業を決意するわけだが、その人となりを明確にするために、まずは時代をさかのぼってみよう。

アラン・シャペル氏に師事

 おとなしく引っ込み思案な子どもだったという音羽氏。蝶の収集が趣味で、標本作りに夢中になった。そして、世界の蝶を図鑑で見ながら、海外への憧れを募らせるようになる。そんな音羽少年が料理の世界を志したのは高校生の頃。料理好きの母親の影響もあり、「料理人になりレストランビジネスをやりたい」との強烈な思いを持つようになる。大学卒業後、いったんは渋谷のイタリアンレストランに勤めるも「このままでは一人前になるのに10年かかる」と、海外へ修業に出る決断をする。船とシベリア鉄道を乗り継ぎ、つてをたどり紹介してもらったレストランのあるドイツのキールに。

「全部不安でした。言葉もできず技術もないけど、行ってしまえばまあなんとかなると……」

 あるのは料理人になりたいという情熱だけ。地下の倉庫で整理係。2カ月後から厨房で下働き。周囲からかわいがられはしたが、次第に食の本場、フランスへの憧憬が募っていく。

「フランスの有名店に60通くらい手紙を書きました。また、バカンスの際にはそれらの店に行って直に頼み込みましたが断られ続けました」

 とにかく「急ぎたい」思いが強かった。ケルンのホテルを経て、スイス・ジュネーブのフレンチレストランへとたどりつく。この店の料理人は全員フランス人。ジュネーブは国際都市で所得水準も高く、主人は著名なシェフ。「とても勉強になった」という音羽さんだが、狙いはさらに別のところにあった。当時、世界最年少で「三ツ星シェフ」となった厨房のダビンチ、アラン・シャペル氏に猛攻撃をはじめたのだ。50CCバイク「Dax Honda」で6時間。4度突撃してすべて断られた。しかし音羽氏はあきらめなかった。

「以前、アラン・シャペルさんのお母さんから、私が出した手紙の返信をいただいていたんです。内容は『2、3年後にまだ気持ちが変わってなければ来てみなさい』というもので、それをシャペルさんの前に突き出して、雇ってくださいと……。シャペルさんが少し顔色を変えたところで、私は『ありがとうございます。故郷の両親も喜びます』とそそくさと店を出ました」

 その後、ジュネーブの店主の後押しもあり、日本人として初めてシャペル氏に師事することに成功したのである。まさに度胸と執念だった。

 シャペル氏のもとで3年半を過ごした後、やはり三ツ星シェフのミシェル・ゲラール氏に師事。シャペル氏とは色合いの異なる超一流の技に触れる。「他人の2年は僕の1年くらいの感覚で、必死に技術の修得につとめてきました」という音羽氏。まさに、疾風のような7年が過ぎた。

地方から世界に通じる仕事を

 話を冒頭に戻す。地元愛に目覚めた音羽氏は、30歳で勇躍日本に帰国。中華まん、和洋菓子などの食品製造とレストラン経営が主事業の上場企業・中村屋(東京・新宿)に入社する。今度はマネジメントを勉強するためだ。

「料理と経営は別ですからね。中村屋さんでは、料理長としてさまざまな経験をさせていただき、おもにマーケティングやマネジメントを勉強。そして飲食関連の新規事業の立ち上げにはほとんど関わりました」

 3年という中で一通りの知識を習得し、いよいよ念願の独立である。1981年、義父が営む酒屋の倉庫を譲り受け、宇都宮では珍しかったフレンチレストラン『オーベルジュ』をオープン。税務顧問である税理士法人浜村会計の浜村智安所長は話す。

「当時から栃木県の食文化を引き上げたいとおっしゃっていたことが印象に残っています。正直、保守的な気風の宇都宮でフレンチレストランなんて大丈夫かなと思っていましたが、その後、積極果敢なぶれない活動を次々と実践される姿を見て、シェフの思いの強さを実感しました」

 その後、多店舗化に取り組みながら、栃木県の食文化向上のための活動に邁進していく。レストランを市内に4店、益子町に1店、総菜店、さらに集大成ともいうべき高級フレンチ『オトワレストラン』と、次々とオープンする一方で、子ども向けの食のセミナーや主婦を対象にした料理教室なども精力的に開催した。

「創業してまもなく、殺伐とした日本の社会の風潮に、本当の豊かさとは何かを考えるようになりました。そしてそれは食のあり方と関係があるのではと……。規則正しく栄養バランスのとれた食事を楽しくとることが、健全な精神を保つ助けになると、徐々に食を通じた社会貢献活動をするようになったのです」

 地産地消もそうだ。音羽氏は、欧州での経験から、その土地の気候や風土に合った食材を風土に合った調理法で提供するべきだと考えている。そのため地元の農家から野菜の供給を受けたり、また、農家やレストラン経営者向けにセミナーなどの啓蒙活動も行っている。

 また、強調すべきは、やはり音羽氏の経営者としての側面だろう。現在、オトワグループの税務監査を担当する手塚悟税理士はこう話す。

「料理人としてはもちろんですが、私は経営者としての感覚、判断力がすごいと思っています。ここまで閉店も経験されながら、現在は4店舗。それぞれ、高級店、カジュアル店、ホテル内店、そしてデリカと、非常にバランスのとれた構成になってきている。常に経営者として学ばれ、深く思考されてきた結果でしょう」

 さらに驚くべきことは、長男の元さんと次男の創さんが、ともにフランスでの修業を経てそれぞれオトワレストランの料理長、シテ・オーベルジュの店長をつとめ、また、結婚式などを担当する長女の香菜さんは、米英国への留学経験により英語に堪能で「コミュニケーション能力が高い」(音羽氏)と評価されるなど、家族一体となって運営していることだ。

「“きょうだい仲良く”というのは、中小企業では非常に珍しいこと。オトワグループの最大の強みかもしれません」と浜村税理士はいう。

「栃木は豊かな自然や世界遺産の日光など、東京オリンピックに向けて増える観光客にPRできるものが多い。栃木の良さを宇都宮から発信していきたい」と音羽氏。

 若くして欧州にわたり、ひとりで道を切り拓いたバイタリティーは、その後、日本での独創的な活動に直結。堅固な絆で結ばれた家族の後ろ盾を得て、今後は「栃木という一地方から世界に通じるものを生み出していく」ことが重要になるという。「心が折れるという経験がない」という音羽氏のゴールはまだまだ先である。

(取材協力・税理士法人浜村会計/本誌・高根文隆)

会社概要
名称 オトワ・クリエーション
所在地 栃木県宇都宮市西原町3554-7
社員数 50名
URL http://otowa-group.com/

掲載:『戦略経営者』2015年4月号