デフレ脱却を旗印に、企業に「賃上げ」を要請する安倍政権。「ベア」や「定期昇給」を通じて賃上げに踏み切る大企業も多いなか、はたして中小企業はどう動くのか──。
試作品製造を手がけるジェイ・エム・シー(JMC/本社・横浜)の渡邊大知社長(39)は、昨年12月、首相官邸に招かれた。安倍晋三総理が主催する「『経済の好循環』の実現に向けた中小企業経営者との懇談会」への出席を求められたのだ。
賃上げなど従業員の待遇向上に積極的に取り組むことにより、優秀な人材の確保などを実現している中小企業経営者との意見交換を目的に開催されたその懇談会には、渡邊社長を含めて6社の経営者が出席した。
「懇談会のなかでは、各社が賃上げ等の取り組みについて紹介していきました。うちの場合、経常利益の30%を賞与の原資にして従業員に還元するという明確な仕組みがあります。そこが一番面白がられましたね」
アベノミクスを推進する安倍政権の悲願は、デフレからの脱却。円安と株高、そして公共事業などの景気対策でここまで順調にきたが、今年4月の消費税増税による消費の冷え込みが、それを"腰砕け"にすることが懸念されている。だからこそ政府は、各企業に賃上げを要請し、働く人たちの所得を増やす方向にドライブをかけているわけだ。
政府の要請を受けて、ベースアップやボーナスの増額など、賃上げに踏み切る大企業が出てきているが、問題なのは国内企業の9割超を占めると言われる中小企業。どうすれば中小企業が賃上げに動くか。そのヒントを得るために開かれたのが前述の懇談会であり、出席した中小企業がどんなかたちで賃上げしたかについては、政府側の出席者にとって大きな関心事だった。
3Dプリンターによる樹脂製品の製造などで目下、好調に業績を伸ばしているJMCの場合、利益の30%を賞与の原資にするという先述のルールにのっとって社員の賃金は上がっている。加えて、定期昇給を毎年実施しているため、その分も上乗せされている。ボーナスで多少の揺れ幅はあるものの、基本的に社員の給料は毎年増えるとの前提で設計されているのが同社の賃金制度なのだ。
「うちが手掛けている仕事は、『明日にでも納品してほしい』といった超短納期のものばかり。当然、従業員にかかる負荷もそれなりに大きい。だからこそ給与面の待遇を良くして、将来的にも安心して働ける職場であることをみんなに認識してもらう必要があると思っています」
賃上げの機運はある
とはいえ、JMCのような中小企業はごく限られた層にすぎないのではないか──そう考える人もいるだろう。だが、「賃上げに踏み切ったところは思いのほかある」と、東京商工会議所・中小企業部の森まり子さんはいう。
東京商工会議所では、昨年8月中旬から9月中旬にかけて、東京23区内の中小企業を対象に賃金に関するアンケートを実施した。そこから浮かび上がってきたのは、回答した中小企業2,628社のうち、3社に1社(35.3%)は前年にくらべて賃金総額を増やしているという調査結果だった。
「賃金総額が増加した要因としては、『毎月支給の基本給を上げた』(64.1%)、『一時金(賞与)を増額した』(37.0%)など、従業員にとって収入増となる『賃上げ』が約8割(77.8%)を占めています」
この結果には、アンケート調査にあたった森さんたちも少なからず驚いたという。予想していた以上に、中小企業が賃金を引き上げていたからだ。
「経営者に直接ヒアリングしてみると、『5年ぶりに給料を上げた』というようなところが多かったですね。ここ数年、経営が相当厳しかったものの、それが一段落したことから、月例賃金を増やす機運が高まったようです」
なかでも賃上げムードをけん引しているのは、人手不足が深刻な建設業。人材をつなぎとめるためにも賃上げが必要とされているのだ。
「それ以外の業種については、おのおのの会社の業況次第といったところで、製造業だからダメだとか、小売業だからダメだとかいう傾向はさほどありません」
こうした傾向は、なにも東京23区内に限ったことではない。日本商工会議所が全国3,125社を対象におこなった賃金に関する調査(13年9月30日公表)でも、37.9%の企業が昨年4月以降のベースアップまたは定期昇給により「賃金を引き上げた」と回答している。「今後も、賃金を引き上げる中小企業が増える可能性はあります。特に東京の場合、オリンピックの開催を控えて、景気がさらに良くなると予想されるため、期待できるでしょう」と森さんは言う。
中小企業は飛行機の後輪
徐々に上向きつつあるといわれる景気。中小企業経営者の実感はどうなのか。本誌編集室では1月下旬、複数の経営者に景気と賃金の動向を聞いた。
建築用塗料製造を手がける、エビス塗料の渡辺隆社長は話す。
「大企業と中小企業の関係は、飛行機の前輪と後輪によくたとえられる。前輪は大企業で後輪が中小企業。離陸、つまり景気浮揚時は前輪から上がるが、着陸するときは後輪から。中小企業が景気上昇の恩恵を享受できる期間は、大企業にくらべ短い」
景況実感では渡辺社長のコメントに代表されるように、慎重な見方がほとんどを占めたが、要因としてもっとも多く挙がったのは原材料費の高騰。
「原料費が上昇しているため、製造している加工食品のボリュームを抑え、価格調整でしのいでいる」(海幸水産・深井正人社長)
「原材料の価格高騰で今の景気にはマイナスイメージがある」(栃木県・繊維業)
海外から原材料を調達している企業にとって、円安は利益を圧迫する要素にほかならない。4月に控える消費税率アップも懸念材料だ。
「ここ数カ月間、駆け込み需要で受注額は前年同期より若干上回っている。4月以降の反動減はこわいが、一喜一憂しないよう、心がけたい」(中里スプリング・中里良一社長)
デフレムードに覆われていたころと異なり、変化の兆しを感じとっている経営者もいる。
「昨年末のあいさつ回りでは、おととしよりも明るい話題が多かった。2020年の東京オリンピックで使用される競技場の整備を早める動きがあり、受注増につながればと期待している」(エビス塗料・渡辺社長)
「ニュースで見るような景気回復を実感できないが、決して不景気でもないと感じている」(意匠計画・樋口壽伸社長)
「景気、不景気は経営者の心がまえ次第。当店は引く手あまたです」(静岡県・青果店)という頼もしい声も聞かれた。
一方、賃金動向はどうか。
「従業員の仕事に対する意欲を引き出すため、基本給の2~2.5%の定期昇給を予定している」
こう話すのは岩手県大船渡市で和菓子製造・販売を営む、さいとう製菓の齊藤俊明社長だ。厳しい経営環境のもと、定期昇給で対応するという企業が多いなか、別の方法で従業員に利益を還元するとの回答も散見された。
「社員の定着と優秀な人材を採用するねらいから、1月にベースアップを実施した」(東京都・機械工具卸)
「重機などを運搬する運送業を手がけており、メーンの取引先は建設会社。業務が増えているため、3月に一時金の支給を検討している」(YOU Corporation・財津裕司社長)
小規模企業はまだ先の話
ただ、「売り上げが横ばいのなか、賃金アップは厳しい」(夢工場・奈良孝志社長)とする企業もある。やはり賃上げする中小企業は、業績が好調だったり、それなりの従業員規模のところ。前述した東商の調査でも、毎月支給の基本給を上げたのは、従業員20人を超える企業で5割に達している一方で、20人以下では2割(20.5%)にとどまっている。
「まわりを見回しても、5~10人ほどでやっているような孫請け、ひ孫請けの町工場が賃上げをするのは、まだ難しいと思います」
と話すのは、東京・葛飾区の杉野ゴム化学工業所の杉野行雄社長(64)。ゴム製品をあつかう従業員4人の町工場を営んでいる。ここでも、先ほどの原材料費アップの話が出た。
「うちの場合、原油からつくる合成ゴムを使うので、最近の原油の値上がりから2~3割コストが上がっています。たとえこの状況を元請けの親会社に訴えたところで『一時的なものかもしれないので様子を見よう』とされてしまい、値上げは難しい。小規模な町工場にとっては、賃上げなどまだ先の話ですよ。私たちも本心では賃上げをしたいと考えています。次世代を担う人材を確保するためにも、それが必要だからです。『熟練の技術を若い世代に伝承する』のはわれわれ町工場の共通した課題。でも安い賃金では、なかなか人が来てくれません」
この状況を打破するには、やはり会社の業績を良くするしかない。そのために必要なこととして、杉野社長はまず「下請け根性からの脱出」を挙げる。
「受け身の仕事をするだけではなく、オリジナル商品を開発したり、ネットを使って海外から新規受注を取るなど、自ら仕事を創り出す積極性が求められているのだと思います」
実はいま日本の町工場には、米シリコンバレーから熱い視線が送られているという。シリコンバレーといえば、IT関連の先進的なベンチャー企業が集まっているとの印象が強いが、近年はいわゆる「水平分業モデル」を取り入れながら、スピード勝負で斬新な製品を世に送り出していく、新しい形の製造業も存在感を高めている。その部品製造の委託先として注目されているのが、日本の町工場なのである。
「彼らは1日、1秒でも早く納品してくれるところを探しています。優れた技術を持ち、短納期に確実に対応できることをアピールすれば、より利益率の高い仕事を請け負える可能性はあります」
ともあれ、4月に消費税率が引き上げられる一方で、賃金が上がらなければ、日本経済は再び水面下へと逆戻りしてしまう。その意味でも、中小企業経営者は熱意をもって業績改善に取り組み、従業員の日ごろの頑張りに可能な限り報いていく姿勢が求められているといえるだろう。
(本誌・吉田茂司、小林淳一)