イソップ寓話を持ち出すまでもなく働き者としてのイメージが強い、アリ――。そんな“定説”に一石を投じる『働かないアリに意義がある』がいま話題になっている。著者である長谷川英祐さんに、アリが示唆する組織のあり方について聞いた。

プロフィール
はせがわ・えいすけ●進化生物学者。1961(昭和36)年、東京都生まれ。大学卒業後民間企業勤務ののち、東京都立大学(現・首都大学東京)大学院で生態学を学ぶ。現在、北海道大学大学院農学研究院生物生態・体系学分野准教授。人間のような社会構造をもつ社会性生物の研究で大きな注目を集めている。おととしに発売された『働かないアリに意義がある』(メディアファクトリー新書)がロングセラーに。
北海道大学大学院 長谷川英祐准教授

長谷川英祐 氏

――おととし12月に出版されたご著書である『働かないアリに意義がある』が10刷を超えるベストセラーになっています。そもそもどんな経緯でこの本は生まれたのでしょうか。

長谷川 働かないアリの研究は以前からやっていて「働かないアリだけを集めると一部は働くようになる」という研究結果を学会で発表すると反響が大きく、新聞の取材を受けたりしていました。それで「常に働かないアリがいないとコロニー(集団)が長続きしない」という学会での発表を聞きつけた出版社から、執筆の打診を受けたのがきっかけです。
 なぜかよくわからないのですが、働かないアリの話はとにかく一般の人に受けがいい。この本の内容は完全に生物学の話題で、組織運営自体を論じているわけではありません。われわれが研究している基礎科学の領域は、すぐに世の中の役に立つことを研究しているわけではないので、多くの人たちに関心を持ってもらうことがとても重要です。本の表紙に“身につまされる最新生物学”とうたっているとおり、アリの世界でも人間社会同様、裏切りや戦争、はては過労死まであります。きっと読者の方々はアリの社会を人間社会に置き換えて読まれているのではないでしょうか……。

――大学卒業後、一般企業に就職されたそうですね。

長谷川 臨床検査会社で白血球の活性化を図る実験など、免疫学系の仕事をしていました。退職後大学院に入ったのですが、今振り返るとあの5年間の企業での経験がなければ、大学院での研究成果は思うように上がっていなかっただろうと思います。勤務経験を通してまずわかったのは一定の成果を残すうえで、与えられた時間はあまりにも少ないということです。研究者は研究内容やスケジュールをすべて自分で決められるため、時間のありがたみを忘れてしまいがちになります。私自身、同級生より遅れて大学院に入っているので、“背水の陣”の覚悟でまわりの人の数倍の量の研究をこなしました。あと、人間の組織がうまくいくヒントも得られましたね。

途方もなく地道な観察

――なぜアリを研究しようと思ったのですか。

長谷川 アリは女王しか卵を産みません。これはとても不思議なことで、生き物はふつう、遺伝子を次世代に伝えるためどの個体も子孫を残そうとします。この生物進化の原則に矛盾するアリの行動に興味をもったのです。アリをはじめとして、役割を分担してコロニーを作っている昆虫は社会性昆虫とよばれ、シロアリやネズミ、エビなどにも社会性をもつ種類がいることが知られています。

――どのようにアリのコロニーを観察するのですか。

長谷川 15センチ四方の大きさの巣を石膏で作り、ガラス板で覆って中にいる300匹ほどのアリを顕微鏡でのぞいて観察します。体長が6、7ミリで動きが鈍い種類のアリを選びました。あまりにも動きがすばやいと目で追えませんからね……。インクで頭と胸、腹の3カ所に個体ごとに異なる色をつけて識別します。例えばあるアリは“白、白、白”の組み合わせで、別のアリは“白、白、赤”といった具合です。塗っている最中、インクが足に張り付くと死んでしまうし、指の皮膚の薄いところを針で刺されるとかなり痛いので、手間のかかる大変な作業でした。観察時間は1日7時間ほどで、15分おきにアリが何をしているか1匹1匹調べ、記録に残します。するといつ眺めても一向に働いていないアリがいることがわかったのです。

――でも、働かないアリだけを集めて観察すると一部は働きはじめると……。

長谷川 そうです。アリは働きたくないから働かないわけではなく、先に働かれると働けないのです。周りに働いているアリがいなければ普通に働くし、働くアリと働かないアリで能力の差があるわけではありません。つまり外部からの刺激に対して感度のばらつきがあるということです。このような仕事に対する腰の軽さの個体差を「反応閾値」と呼んでいます。

――本書の中では反応閾値について「どれだけ部屋の中が汚れたら掃除を始めるかは人によって異なる」と例えられていたのがわかりやすかったです。

長谷川 実はアリはコロニーにおいてさまざまな活動をしていて、幼虫の世話をしたり、えさを取りに出かけたり、またある時は、突然空から落ちてきた栄養価の高いごちそうを拾いに行かなければならないかもしれない。必要な仕事が現れると最も反応閾値の低いアリがまず取りかかり、また別の仕事が現れたら次に閾値が低いアリが行うというように、必要に応じて労働力をうまく配分しているのです。
 同じく社会性昆虫であるミツバチの例を挙げると、ミツバチは巣の中の温度が高くなると、空気を入れ換えるために羽ばたきをして温度を下げようとする。羽ばたきを始める温度は個体ごとに遺伝的に決まっていることが実験で明らかにされていて、複数のオスと交尾をした女王バチのいる巣のほうが、人工的に1匹のオスとしか交尾をしていない女王のいる巣に比べて、徐々に働きバチによる羽ばたきが始まり巣の温度をきめ細かく調節していることがわかったのです。したがって巣の中が幼虫の成長に適した温度に保たれる。ただアリの場合、反応閾値が遺伝子で決まっているかどうかはまだ解明されていません。ずっと働いて疲れてしまったときに、誰かがピンチヒッターに入れるような仕組みが大事なのです。

今日と同じ明日はない

――突発的な事態に対応できる“余力”を組織に残しておくことが重要というわけですね。

長谷川 最近は短期的に成果をあげることが求められるため、あらゆる分野で効率化が叫ばれています。明日も今日と同じ環境が続くなら、効率化のみを追求していればいいのですが、生き物の世界や人間社会は必ずしもそんなことはありません。変化に対応できる保険をかけておくことは社会にとって結構重要で、世の中でその役割を担っている組織は大学だけなのではないかと思っています。例えば狂牛病の病原体は神経細胞にあるプリオンというタンパク質が変異したものだと考えられています。それまでなんの役に立つのかはっきりわからなかったにもかかわらず、プリオンを研究し続けていた学者が少数ながらいたため、すぐに彼らの知識を応用研究に取り入れられたということがありました。
 また、話は変わりますが先日ニュースを見ていたら、トヨタが「ハチロク」というスポーツカーを東京モーターショーに出展すると報じられていました。世の中にはスポーツカーのような刺激のあるモデルを求める人がいたり、またある人は大勢の人が乗れるミニバンを買ったり、さまざまなニーズがあります。もし世の中の全員が「プリウス」を欲しがっているのなら、効率性を追求してプリウスの生産に特化した組織を作ればいいわけですが、実際は違いますよね。環境が変動してプリウスが売れなくなったときに対応できなくなってしまう。将来何がはやるかは誰にもわからないので、色々なジャンルに保険をかけておかないと組織は長続きしないわけです。

――なるほど。本の中で「無駄を楽しめるのがヒトという生物を人間たらしめている」とも記されています。

長谷川 生き物をふだん眺めていて感じるのは、彼らは無駄なことはほとんどやらない。それは非常に厳しい生存競争にさらされているからで、無駄なことをしている個体は生き残るうえで不利になってしまうのです。ところが人間が生んだ文化は、必ずしも生きるために欠かせないものというわけではない。国の債務が900兆円にせまり、無駄を省こうとして社会に余裕がなくなってきているのは確かです。でも無駄をきちっと意識して無駄を楽しめるのが人間の素晴らしさなのではないでしょうか。大学でも産学協同を推進している研究室を優遇しようという動きがあります。そうするとうちの研究室はどうなるかわかりませんが(笑)、ただ無駄を削ることをつきつめていくと、余力をそぐことになってしまうのではと心配しています。

人は納得してこそ動く

――研究室もいまや成果で評価されているのですね。

長谷川 数年前まで、北大では授業を学生に評価してもらい、点数を出し、順位をつけて「あなたは北大の教員のうち何位です」と本人に知らせていました。学内の教員は500人ほどいて、自分の順位はまあまあだったので何の問題もないと思っていましたが、よく考えると「あなたは500位です」と言い渡される人もいるわけですよね。これでは本人のやる気をそいでしまいます。上位だった人はいいとしても、真ん中より下の順位だった人は「一生懸命やっているのになんだこの結果は」と感じるかも知れない。結局、今では順位をつけるのをやめたようです。
 あと人を評価するときによくあるのは、極めて能力の高い人だけを評価するやり方です。実際はどんな組織でも能力の分散があって、真ん中のそこそこの能力のあるグループの人が最も多くて、能力が突出した人と劣る人は少数という構成に必ずなっています。組織全体の効率を引き上げたいときに、トップの少数の人だけに報奨金を与えるようなことをしても組織全体の底上げにはつながらない。平均的な能力を持っている人たちが、今までよりも少しよく働くように仕向けることが実はとても大事なのです。煎じ詰めると、ボリュームゾーンに属する人たちにいかにやる気を出してもらうかが重要だということです。人間はアリと違って一人ひとり感情を持っていて、気持ちで仕事をしているわけですから……。

――人は感情の生き物です。

長谷川 ええ。企業に勤務していたときこんなことがありました。当時、課の中で複数の班に分かれて仕事をしていましたが、ある時、われわれのグループにミスをしがちだったメンバーが1人加わったところ、その人は以前よりもずっと仕事をスムーズにこなせるようになった。課長が驚いて理由を聞いたところ「前に所属していたグループでは失敗をすると怒られていたが、ここはミスをしてもメンバーがフォローしてくれる」と答えたそうです。本人は失敗しても頭ごなしに怒られないので、自分の潜在能力を遺憾なく発揮できたらしい。
 もっとも僕も学生を指導するさい怒ることもありますが、どういう理由で叱っているのかはっきり説明するようにしています。納得しないと人は動きませんからね。失敗しないことを評価する“減点主義”を取り入れると、皆ミスをしないように安全なことしかやらなくなってしまう。失敗と成功をはかりにかけて、成果の方が大きければ正当に評価すべきです。そうしないと、いざというときにとっぴで、斬新なアイデアを思いつく人材は育たないと思います。

風通しのいい組織を

――社員の定着に腐心する経営者も多いと思います。何かヒントはありますか?

長谷川 僕も学生たちと研究室というひとつの組織を作って活動していますが、やっぱり楽しくないとだめなんです。仕事が大変なのは当たり前ですが、それを上回るほどのやりがいを感じられたり、職場が良い雰囲気だったりすることが大事です。そのためには社員の意見を吸い上げ、業務環境を改善する取り組みをすべきでしょう。
 団塊の世代の人々は非常によく働きました。ではなぜ彼らが会社に自己を預けて働けたかというと、会社に帰属意識があって会社が発展していくにつれて収入が増え、経済的地位も上がりさらに自己実現にもつながったからです。ところが今の若い人たちは豊かな生活をしている人が多い。彼らの帰属先は企業などの組織ではなく、友人との小さなコミュニティーだったりするので、上司がただ頭ごなしに自分の言う通りにしろと怒ってみても、人心は離れるいっぽうです。確かに社員の不満をすべて解消することはできませんが、できるだけ自分の意見が取り上げられ、反映されていることを実感できるような組織づくりが大切だと思います。

――今後の構想を教えてください。

長谷川 繰り返しになりますが、僕の手がけている研究は直接世の中の役に立つとか、すぐに応用できるものではないので、とにかく面白いと感じてもらえるような研究をしていきたい。それが一般の人たちを基礎科学にリクルートできる唯一の方法です。僕自身、アリの研究を始めたきっかけは、アリは子供を産まずにきょうだいの子育てを手伝うことで自分と同じ遺伝子を後世に残そうとすると書かれた本に出会い、自分で確かめてみようと思ったからです。従来とまったく異なる考え方は、知的好奇心のある人たちを引き寄せます。そんな刺激を生むような仕事を今後もしていきたいですね。

――ところで自宅でも生き物を飼っているとか……。

長谷川 カメを30頭ほど飼っていて、家中カメだらけです(笑)。水槽に入れて飼っていても、ただどかっとそこにいて、あまりストレスを感じていないように見える……。心が和むんですよね。

(インタビュー・構成/本誌・小林淳一)

掲載:『戦略経営者』2012年1月号