対談・講演
飯塚毅先生・武田隆二先生と出逢い、実務と会計学研究で確信した「会計で会社を強くする」意義
第7代TKC全国会会長 坂本孝司会長に聞く
とき:平成28年11月17日(木) ところ:ホテル椿山荘東京
巻頭インタビュー前半では、「会計を中心に経営者を支援していく税理士は尊い仕事」という坂本会長の熱い思いをお届けした。後半では、坂本会長が税理士を志した背景や恩師・武田隆二先生との出逢い、独立開業そしてTKC会計人としての歩みなどについてうかがった。
(インタビュー前半はこちら:税理士業界全体がより社会に認められ、尊敬される職業になるよう力を尽くす)
◎インタビュアー 会報「TKC」編集長 石岡正行
高校2年生の夏に決めた税理士という進路
──先月号では「税理士は尊い仕事」という、われわれ税理士にとって非常に力がわくメッセージをいただきました。坂本会長ご自身のことをうかがっていきたいと思います。そもそも、坂本会長が税理士という職業を志した背景について、教えていただけますか。
TKC全国会会長
坂本孝司
坂本 私の父親は静岡と長野の県境で六男として生まれ、17歳で家を出されたのだそうです。それで浜松の原野に入って土地を開拓した開拓農家なんですね。今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台の一つとなる三方ヶ原の原野、その名の通り三方が原っぱの台地で、開拓が非常に困難な土地だったそうです。17歳から入植して、私が生まれる頃に何とか農業ができるくらいの土地を開拓したと聞いています。だから私自身は大事に育てられたのですが、貧しかったのは確かです。高校2年生のはじめに、親から卒業後の進路についてはっきり言われました。「浪人はさせられない」「国立大学しか行かせられない」「仕送りはほとんどしない」「卒業したら浜松に帰って来い」と……。長男ということもあり、制約条件をいくつも付けられてしまったんです。
進学校でしたし、周りを見てもそんなことを言われている友達はいませんでした。東京や関西、名古屋の大学に行くという友達ばかりで、私も当然そうしたいと考えていましたから、その時は「なんてひどい親なんだ」と思いました。2~3カ月悩みましたが、現実として認めざるを得ない状況なのも分かっていましたので、自分の将来を真剣に考えました。
そして、地元でできる仕事で、転勤もなく、専門性を活かせる職業はないかと探した結果、税理士に行き着いたんです。
──高校2年生で、一生をかける職業を選択しないといけないというのは、難しい決断でしたね。
坂本 そうですね。ただ、今から思えば若い頃の制約条件は必ずしも悪いことばかりではなくて、逆に将来を真面目に考える良い機会になったと思います。もし当時「何でも好きなことをしなさい」と親から言われていたら、たぶん何も考えずに適当な大学を選んで、適当に就職していたような気がしますね(笑)。
会計学研究のメッカ・神戸大学で武田隆二先生の「税務会計論」を専攻
──神戸大学を受験されたわけですね。
母校の神戸大学にて
(2016年11月撮影)
坂本 税理士になるため、会計を勉強できる国立大学に行こうと思ったのですが、当時の一期校では神戸大学にしか会計学科がなかったんです。
でも、受験時には意識していませんでしたが、その当時から会計学研究といえば一橋大学、早稲田大学、そして神戸大学が三大勢力でしたから、本当に神戸大学に行ってよかったなと思っています。当然のことながら恩師の武田隆二先生と巡り会えたのも神戸大学を選んだからですしね。企業会計原則の生みの親といわれる黒澤清先生(元TKC全国会最高顧問)も神戸大学から経営学博士号を授与されています。武田先生をはじめ、神戸大学の教授陣は非常に誇りを持って研究されており、本当に恵まれた環境で勉強できていたんだなとしみじみ思います。
しかも当時、武田隆二先生が持っていらした講座の一つに「税務会計論」がありました。当時、中央大学でも富岡幸雄先生が「税務会計論」を作られていましたが、いずれにしろ当時の日本の会計学においては「税務会計論」が先駆的な講座であったことは間違いありません。ですから当時、東の富岡先生と並んで、西の武田先生は税務会計論の権威でもあったわけです。税理士業務は税務と会計が必須ですから、神戸大学に入り、そして税務会計論の講座責任者だった武田先生のゼミに入って、「税務会計論」を卒論のテーマに選んだというのは、ご縁に導かれたのかもしれません。
法学者・忠佐市先生と会計学・武田先生の相違を卒論に
──富岡先生は国税庁出身ですが、武田先生のように純粋な研究者で税務会計論を論ずる方は当時皆無でしたよね。
坂本 おっしゃるとおりです。特に、武田先生の『法人税法精説』(森山書店)は素晴らしい本です。
卒論を書くにあたっては、日本大学で教鞭を執られていた忠佐市先生の研究書を読破しました。『租税法要綱』(森山書店)などは、かなり読み込みました。というのも、当時忠先生は武田先生と激しい論争を展開されていたんです。忠先生は国税庁出身で法学博士号もとられている法律のプロです。税法をもっと細かく、所得の計算まできっちり法律に規定すべきというのが忠先生の意見でした。
一方、武田先生は会計学の第一人者として、法人税法第22条第4項にいう「一般に公正妥当と認められる会計処理の基準」とは理念的・抽象的概念であり、法律によって全てを規定しきれないところに会計の本質がある──と主張されていました。つまり法律学者は会計を法律で規制しようとする一方、会計学者は法律ではなく基準や公正な慣行として会計の自由を訴えていたわけです。アプローチの仕方が全然違うので、真正面から激突するんですよね。
そうした点を指摘しながら税務会計論の卒論をまとめ、ゼミで発表した時は武田先生からほめられました。「坂本くん、ありがとう。忠先生がどうして私を批判しているのかよく分かりました。そういうことだったのですね」と(笑)。
でもあとで調べてみると、飯塚事件の時に国税庁側で唯一飯塚毅先生を擁護したのは忠佐市先生なんですよ。それだけ見識のある素晴らしい先生だということです。映画『不撓不屈』で、人のよい当局の方がいましたが、そのモデルが忠先生です。忠先生は松澤智先生(第2代TKC全国会会長)の前任の教授でもいらっしゃいます。忠先生が松澤先生を日大に招聘したのですから、それもまた浅からぬご縁を感じますよね。
「なんと志の低い」と言われ「日本一の税理士になります」と宣言
──武田先生との思い出を教えていただけますか。
坂本 大学に入学してからずっと税理士資格の勉強をしていましたが、武田ゼミでは「税理士を目指しています」とはなかなか言えなかったですね、雰囲気として。当時の武田ゼミは15人いましたが、国家試験にチャレンジする人は100%公認会計士を選んでいて、税理士を選ぶ人は誰もいなかったんです。だから私は皆に黙って、大学の図書館で1人で勉強していました。お金もないので全部独学でしたね。
そうしたら大学4年生の秋、大学の事務係から呼び出されて「いまだに就職が決まっていないのは君だけだ。指導教授と相談してきなさい」と叱られたんですよ。それで仕方なく武田先生の研究室に行ったんです。武田先生から「君は何をやっているんですか」と言われ、その時初めて「税理士試験を受けていました」と言いました。「状況は?」と聞かれ、「大学3年時に2科目受かって、4年生で2科目受けました。たぶん受かっていると思います」と話したんですよ。そうしたら「在学中に4科目受かるなんてすごいですね」と言ってくださったんですが、間髪入れずに「それだけ勉強が進んでいるんだったら、今すぐ公認会計士試験に切り替えなさい」と。
もう正直に話すしかないと思い、「私は地元の浜松で会計事務所をやりたいんです。監査法人に入ったら田舎に帰れなくなってしまうので、どうしても税理士でなくてはいけないんです」と言いました。そうしたら武田先生は何と言われたと思います? 「なんと志の低い」と(笑)。
何回か、「公認会計士試験にかわりなさい」「嫌です」というやりとりがあった後、仕方なしという感じで武田先生が「じゃあ君はどういう税理士になるんですか」と言われたんです。苦し紛れに「浜松一の税理士になります」と言ったら反応がない。「静岡県一になります」と言っても反応がない。もう仕方ないなと思って、「日本一の税理士になります!」と言ってしまいました(笑)。そうしたら武田先生はついに、「分かりました。君は日本一の税理士になるんですね。私が認知した武田ゼミ第1号の税理士になりたまえ」とおっしゃった。それが、大学4年生の9月頃でした。
あとから分かったことですが、私が武田先生に「日本一の税理士になります」と言った約1年後の昭和53年10月3日、飯塚毅先生がドイツに行かれて、西ドイツ連邦大蔵省で講演をされました。記念すべき日です。そしてこの時の遣欧視察に、黒澤清先生の推挙で、飯塚先生の指導教授として神戸大学から高田正淳先生と武田隆二先生の2人が同行されているんですね。
西ドイツで飯塚毅先生の講演を聴かれたことで、税理士という職業やTKC全国会という組織が、武田先生の頭の中にがちっと入ったんですよ。武田先生は、この遣欧視察旅行から帰られてから「君、税理士になるんでしょう。頑張りなさい」とよく励ましてくれたものです。
──武田先生は飯塚先生の講演を聞かれ、「日本にもこれだけ見識の高い税理士がいるのか」と思われたのでしょうね。
1978年10月3日、西ドイツ連邦大蔵省で講演する飯塚毅TKC全国会初代会長。隣は武田隆二第3代TKC全国会会長
坂本 そうだと思います。そういえば学部卒業後、当時私は神戸の会計事務所に勤めながら研究生として大学院に籍を置いていたのですが、ある日武田先生から研究室に呼ばれて「君、TKCという団体があって、東京にすごい事務所があるから、そこで修行しなさい」と言われました。でも私は断ったんです(笑)。
その頃は飯塚毅先生のこともTKCのことも全然知りませんでしたから。東京でさらに修業するより、いち早く地元に帰って浜松で活動したかった。早くお客さまが欲しいという意識が強かったですね。
神戸の会計事務所に勤務しながら研究者の夢もあった大学院生時代
──そうすると、大学卒業後すぐに浜松に帰られたのではないのですね?
坂本 1年間は神戸に残り、武田ゼミで一緒だった同級生のお父さんの会計事務所に勤務していました。まだその時は残り1科目に合格していませんでしたが、いずれにせよ実務経験は必要ですから先に経験しておこうと思いまして。
──最後の1科目は何でしたか?
坂本 法人税です。法人税はボリュームが多くて難しかったんですよね。予備校に行けば効率のいい参考書やテキストがあったと思いますが、私は独学ですから税務六法の条文、通達、図書館にある本を全部、丸暗記。法人税の勉強では特に理論書をたくさん読みました。それが面白くて。受験よりも研究の方が楽しくなってしまった時期がありました(笑)。でも独学で条文と専門書を勉強したのは、大きな財産になっています。
──浜松の事務所で実務経験を積むというのは考えられなかったのですか。
坂本 実は「早く浜松に帰りたい」とは言いながらも、研究者になりたいという夢もあったんですよ。それで大学院の研究生として武田ゼミに残してもらっていたんです。浜松に近い大学で教授になれたらいいなという思いも、おぼろげながらあったんです。虫がいいですね(笑)。
でも、私が学部生の頃も武田先生はお忙しくて、週1回のゼミにも来られない時がありました。そういう時は、武田研究室の大学院生だった河﨑照行先生(現甲南大学教授・TKC全国会最高顧問)が武田先生の代わりに教えてくれたんです。河﨑先生は私の手が届かないくらいの遠い存在でしたが、武田先生と河﨑先生がお二人でゼミ生を指導してくれる時もあって、そういう時は武田先生が河﨑先生の話をじっと横で聞いている。ある時、「河﨑くん、私はそのようなことを言いましたか」と静かに指摘されました。すると、河﨑先生が「はいっ」と固まっておられるのです(笑)。
その光景を見て、これだけ優秀な河﨑先生がたじろいでしまう師匠の武田先生というのは、どれだけすごいのかと。「自分には大学教授は務まらないな」と思って、結局研究者への道をあきらめたんです。
浜松の後藤会計でTKCと出会い税理士像が180度変化した
──実務家としての道を歩むことを、改めて決意なされたわけですね。
坂本 はい。神戸の会計事務所に勤務している間に法人税も合格したので、その後、浜松に帰らせてもらいました。当時は資格がすでにあったので就職が難しかったのですが、TKC静岡会副会長もされていた後藤允良先生の事務所にお世話になることができました。2年間、独立前提で修行させてもらい、後藤先生には本当に感謝しています。
神戸でお世話になっていた会計事務所は、典型的な記帳代行型事務所だったんです。ですから朝事務所に行ったら、夕方まで事務作業で缶詰めという業務内容でした。
それが後藤先生の事務所に面接に行った時、一目でその違いが分かってしまったんです。後藤会計ではコンピュータが据えてあって、見るからに「書く」という作業がない。従業員も15人くらいいて、規模もまるで違う。すごく格好よく見えたんですよね。「ぜひこの事務所に入れてもらわないといけない」と思いました。税理士として記帳代行を一生やっていくことに疑問を感じていた時期でもあったので、余計に感動が大きかったんですね。
後藤会計は完璧なTKCスタイルで、起票代行も記帳代行も一切ありませんでした。当時は三枚複写伝票でしたが、すべてのお客さまが仕訳を起こして科目印が押してあって、きちんとさばいてある。職員さんは皆巡回監査に行っていますし、入所して改めて、「TKCってすげえな」と思いました。
それまで税理士といえば「手書きで記帳代行・税務申告書類を作成する人」というイメージでしたが、自分でも巡回監査に行くようになって、税理士像が180度変わりましたね。コンピュータを駆使しながら監査をし、経営相談にあずかる仕事だという考えが出てきました。何しろ事務作業をしませんので、巡回監査も時間に余裕があります。だから結構お客さまと話をする時間を取りました。
この時、人の話を聞くということは、それだけで大きな価値があるということを発見したんですよ。まだ当時は20代でしたから、経営者から見れば若造で人生経験も少ない。だからこちらが変に教えてあげるという態度で接すると知識もないので間が持ちません。とにかく経営者の話を何でもいいから聞いてさしあげようと思わざるを得なかったのですが、かえってそれがよかったんだと思います。
もう一つ考えが変わったのは、税理士としてのスタンスです。私は大学時代から、税理士は税の分野で弁護士のような仕事をする人だと思っていたんですよ。
──依頼者のために仕事をすると。
坂本 そうです。「大企業に比べて、立場の弱い中小零細企業を体を張って守ってあげるんだ!」という意識が強かったんです。それが、ちょうど後藤会計に勤務していた間に、昭和55年の税理士法改正がありました。TKCの研修で税理士法第1条の使命条項について学ぶ機会があり、そこで税理士とは「税務に関する専門家として、独立した公正な立場」で仕事に臨まなければならないという条文を初めて見ました。「独立した公正な立場」というのは、納税者寄りではないですよね。納税者側に立っていないのに、なぜお客さまは税理士にお金を払ってくれるんだろうと、本当に不思議に思ったものです。
でも後藤会計では、「独立した公正な立場」としての税理士業務が、きっちりできていたんです。「税金を何とかしろ」「帳簿書いてくれ」なんて言うお客さまが一切いなかった。だから割とすんなり腑に落ちていきましたし、独立後は自然とTKCへの入会を選びました。
「私もだらしない税理士でした」との先輩会員の一言でスイッチが入った
──後藤先生の事務所で税理士そしてTKC会計人としての基礎を作られ、昭和56年、25歳で独立されたわけですね。
坂本 独立時、父親の同級生の建築会社が事務所を貸してくれました。きっと裏で父親が「息子のために貸してくれ」と頼みこんでくれたんだと思います。
ただ、お客さまはゼロからのスタートでしたから、本当に苦しかったです。生活面もそうですが、何より一番辛かったのは自分の理想と現実があまりにかけ離れていたこと。後藤会計のように格好よく巡回監査をしたいのに、お客さまからは「帳簿は全部作ってね」と言われる。お金もなくてお客さまが欲しいから、「仕方ない、後で記帳指導すればいいや」と思って記帳代行を受けるのですが、関与先から渡される領収書には家族の飲食代とか日用品とか、経費にできないものがいっぱい入っている。後藤会計はいかにレベルが高かったかを痛感しました。後藤先生はしっかり指導されていたんだなと。でもお客さまが離れるのが怖くて、「ダメなものはダメ」と言えない苦しさが数年間続きました。「なんて自分はダメなんだ。本当にろくでもない人間だ」と、死ぬほど悩みましたよ。
それでもお客さまは増えていき、開業5年で関与先は約100件になっていました。ところが当時の売り上げを見ると、約2500万円。1件当たり年間25万円です。職員は5~6名いましたから、売り上げから従業員の給料とTKCへの支払いを引いたら、私の所得は出ません。開業5年目まではずっとマイナスで、本当に苦しかったです。
当時は、TKCからセミナー講師をよく頼まれていて、講演では「TKCに入ればお客さまが増えますよ」と言っていましたが、実際の経営は厳しかったんですよね……。
──坂本会長はトップランナーの印象が強いのですが、内心は多くの会員と同様、理想と現実のギャップやジレンマに苦しんでおられたと。転機はあったのですか?
坂本 開業5年目の12月、TKCの静岡センターから新春セミナーへの誘いがありました。講師は当時のTKC中部会会長、柴田圭造先生でした。「忙しいから」と断っていたのですが、「どうしても」と言うから、仕方なしに行ったんです。
そうしたら柴田先生は、「うちは記帳代行は一つもない」「いつ税務調査があっても何も怖くない」「個人確定申告は2月中に終えて、3月初旬から事務所を閉めて皆で長野に行ってスキーをしている」と言われたんです。私なんか全部逆。記帳代行も一部やっているし、税務調査は怖いし、所得税申告書の一部は3月16日の朝8時に税務署の玄関ポストに投げ込んでいたんですから。
柴田先生の話はあまりに衝撃的で、正直、ウソだと思いました。でも、柴田先生は「私もはじめはだらしない税理士でした」「TKCに入会して飯塚先生の言われる通りに事務所経営をやってきました」「毎日水をかぶったこともありました」とおっしゃった。それで、「あ、この人は本当のことを言ってる」「だったら、自分もできるかもしれない」と思えて、本当に救われました。それが、きちんとTKC流の事務所経営をしようというスイッチが入った瞬間でした。
それまでずっと、きちんとした事務所経営をしたいという気持ちを持っていたのに、怖くて一歩踏み出せなかった。それを柴田先生が強力に後押ししてくれたということです。
書面添付運動・FX2で時代の波に乗り記帳代行型事務所から脱却できた
──関与先が約100件の段階で仕事の仕方を切り替えるというのは難しかったと思われますが、いかがでしたか。
坂本 決断したものの、「本当にうまくいくかな」「お客さん減っちゃうよなあ」と最初はおっかなびっくりでした。でも、こわごわ「もう記帳代行やりません」と言ってみると、意外にあっさり了解してくれる社長が結構いたんですよね。もちろん反論する方もいましたので、どうしたら了解してくれる人が増えるか、あの手この手の説得話法を考える毎日でした。私でダメなら職員に言ってもらおうかとかね(笑)。でも根気よく説得していくと、幸いにも理解してくれる方が増えていったので、だんだん自信を持てました。
幸運だったのが、昭和57年から始まったTKC全国会の書面添付推進運動が、私の事務所改革の時期にどんどん盛り上がってきたことなんですよ。正確に記帳してもらい、巡回監査を徹底すれば書面添付が実践できるので、「税務調査からお客さまを守ることにつながります」という言い方ができるようになり、記帳代行脱却の契機になりました。個人的な経費をダメと言えるのも、「書面添付をするためですから」と胸を張れる。書面添付は本当に助かりましたね。
さらに、平成元年にFX2が提供開始されたことを機に一挙に自計化が進み、記帳代行が終わりました。時代の波に乗るというのは、大事なことだと思います。
──職員さんからの抵抗も多少はあったのではないかと思うのですが。
坂本 TKCの研修やセミナーに行ってもらったり、よく事務所見学に連れて行ったりしました。事務所見学はパートも含めて全員で事務所を閉めて訪問しました。皆で行けば分かってくれるんですよね。彼らも内心、記帳代行は嫌だと思っていたんでしょう。やっぱり誇りの持てる、格好いい仕事をしたいですもんね。
それから仲間の存在は大きかったです。当時、センター長の呼びかけで年齢や開業歴の近い人が集まり、「5人組」という有志の会を作っていました。メンバーは私のほかに齋藤保幸先生、畑義治先生、青嶋伸治先生、長谷川一弘先生。皆で月に1回集まって、拡大方法や事務所経営のノウハウ、悩みなどを共有していました。この会は10年以上続きました。
事務所経営がうまくいかなくて気持ちがなえる時もありましたが、皆で会うと、「また1カ月頑張ろう」と前向きになれたんです。よくTKC全国会は血縁的集団だといいますが、5人組は家族のような付き合いで、まさにその典型例でした。TKCのいいところは縦横の人のつながりの中で親身になって支え合うところにありますが、苦しい時こそ、本当に仲間のありがたさを感じられますよね。
TKC政経研幹事長に40歳で就任「後ろ指さされない事務所」を心掛けた
──現在では、月次関与先は500件近いとうかがっています。事務所発展のポイントはどこにあるとお考えですか。
坂本 事務所経営にプラスになったと思えるのは、TKCの会務でしょうか。平成6年に、当時TKC全国政経研究会の幹事長だった松本清先生が政策審議委員に推薦してくれたんです。当時は飯塚毅先生と一緒に政経研活動をすることもでき、本当に光栄なことでした。
それから税法を含めた法制の改正や立法について考える立場になったことで、より一層理想の会計事務所像や、「職域防衛・運命打開」に向けた税理士業界の今後のことを真剣に考えるようになりました。業界全体のことを考えるのは、自分の事務所経営について考えることに直結していますから、事務所経営上非常にプラスになった出来事の一つです。
──まさに自利利他の実践ですね。
坂本 その後、平成9年に政経研の幹事長を拝命することになりました。当時私は40歳で、史上最年少の幹事長だったそうです。さらに大きな責任感を抱くようになりましたので、絶対に誰からも後ろ指をさされないような事務所経営をしようと思いました。だから、より一層飯塚毅先生が言われた通りの事務所を作ろうと思って、鹿沼の飯塚会計事務所には何回も見学に行かせてもらいました。実質的なトップでいらした関口明先生(関東信越会)がいつも丁寧に教えてくださいましたね。どうすればこんな事務所を作れるかなと思って、必死に悩んだものです。われわれは実務家集団ですから、立場をいただいた以上は、きちんとしたTKC会員事務所を作ろうという固い決心がありました。
実は、私がTKC流の事務所経営をしようと必死だった時、一部の同業の先輩方から「坂本くん、理想と現実は違うよ。飯塚先生の言う通りにやっても事務所は大きくならないよ」なんてことをかなり言われました。それがあまりに悔しくて、悔しくて。だから飯塚先生の事務所みたいに、オールTKCによるモデル事務所を作り上げてやろうという強い想いがずっとあったんですよね。だから一切記帳代行はせずに、自計化も書面添付も継続MASも全部やる。TKC流の経営で事務所を大きくしてみせるという気概で事務所経営にあたってきたんです。
経営者にとっての「記帳の価値」を知りたくて東大大学院に入学した
──現在、坂本会長は研究者としての横顔もお持ちでいらっしゃいます。
東京大学修士論文「ドイツにおける『正規の簿記の諸原則』と『記帳の証拠力』について」
坂本 正直に言えば、学生時代に抱いていた「大学教授になりたい」という夢をあきらめきれなかったんですよね。
それから飯塚先生の論文を初めて読んだ時の衝撃が胸に残っていました。後藤会計に勤務していた時、毎月『TKC会報』と一緒に日本会計研究学会の機関誌『会計』の抜き刷りが所長宛に送られていたんです。それは当時飯塚先生が『会計』に26回にわたり連載されていた論文で、のちの『正規の簿記の諸原則』(森山書店)に結実するものですが、ある時、TKC全国会の会長が書いた論文だというので何の気なしに見てみたら、タイトルに「正規の簿記・帳簿の証拠性」と書いてある。頭の中が真っ白になりました。
決算書を作るための基礎である帳簿に、証拠性があるというのはどういうことだと。学生時代に会計の勉強をさんざんしてきたのに、「帳簿の証拠性」と言われても全然ピンとこなくて、ものすごいショックを受けたんです。それで毎月所長の机からこっそり持ってきて、飯塚先生の論文をむさぼるように読んでいました。
かつて忠先生と武田先生の激しい論争を目の当たりにして、法律学と会計学の歩み寄りは難しいのかなと思っていたのですが、飯塚先生の論文はどちらかというと忠先生と同じ法律学的アプローチ。しかも会計の本質を法律学的にアプローチしながら、ドイツの文献を大量に参照・引用されて書いてある。もうさっぱり訳が分からない。この論文を理解するには、法律学的アプローチをきちんと勉強しないとダメだと思いました。だから事務所経営が一段落したら、いつか勉強し直してみたいという思いがずっとあったんですよね。
それからもう一つは、TKC方式の自計化を推進していた時、飯塚先生の言われる「帳簿の証拠性(力)」はすごく大事なんですが、それだけでは経営者を説得するのにちょっと弱いんじゃないかと。経営者が自分で帳簿を書くことにどれだけ価値があるのか、もっと別の形でお客さまに伝えたいなと思っていたんです。
だから37歳の時、すべての商人に商業帳簿への記帳を法律で義務づけている本質は何なのかということを研究したくて、東京大学大学院に入りました。そして、あえて租税法ではなく商法専攻にし、現在会社法の第一人者である神田秀樹先生に指導いただいたんです。
海外文献で商業帳簿の歴史を探究し「会計で会社を強くする」意義を確信
──どのような研究をされたのですか。
東大修士論文を発展させた「会計制度の解明」(中央経済社)で、2011年度日本会計研究学会大田・黒澤賞を受賞
坂本 現行商法第19条にある商業帳簿規定の意義・背景については、会計や商法に関する本をいくら読んでも答えはありませんでした。だから商法典の立法背景や成立過程といった歴史をたどっていく必要があると思ったんです。
日本の商法の源流は明治32年商法と言われていますが、実は明治23年に最初の商法がすでに公布されています。ところが施行延期となり、紆余曲折を経て明治32年の商法が成立・施行され、それが現行商法の基となっているのです。幻のように消えた明治23年商法は、ドイツのH・ロエスエルという学者が草案を作りました。彼は明治憲法も作った人ですから、当時のドイツの法律の影響を強く受けていると考えられます。
それでドイツ商法を調べたところ、「記帳義務」をうたう1861年制定の一般ドイツ商法典(ADHGB)を見つけました。よく見てみると、日本の明治23年商法はほとんどこのADHGBのコピーだったのです。しかし1861年というのはまだドイツが統一されておらず、多くの都市国家が存在していた時代。結局、ADHGBは各都市国家の商法をまとめたものであることが分かったので、今度は各都市国家の商法を探ることにしました。そして1838年ヴュルテンベルク王国の商法草案に、「無秩序な簿記は破産者の特徴である(Unregelmäßige Führung ist das Kennzeichen des Bankerottirers)」という記述を見つけたのです。
さらにその起源は、1807年制定のナポレオン商法典であることが分かりました。そして、そのナポレオン商法典は、ルイ14世時代、破産防止のために作られた商事王令(1673年)を起源としている──というところに行き着いたわけですね。商事王令の当時の解説書には、「自分自身に説明し、報告することが義務づけられていないだろうか」との記述がありました。さらにドイツ最高峰の会計学者であるレフソン博士は、「法が外部報告義務のない個人商人に対して年度決算書の作成義務を課しているのは、法が破産に対する商人自身の保護と債権者の保護を指向して自己報告を明らかに望んだことの証拠であり、このことは商事王令の解説書において指摘されている」と指摘していました。つまり、「商業帳簿は経営者への自己報告である」ということですね。これらの記述を見つけたときは本当にうれしかったです。
したがって、商法典において記帳義務が規定されている目的は二つある。一つは、飯塚先生も言われた商業帳簿の証拠力の定立です。もともと帳簿は「文書は、その作成者のための証拠にはならない」という法則の明確な例外であり、ドイツの中世都市法典から現行商法典の商業帳簿規定でも、日々適時・正確に記帳された商業帳簿の証拠力に関する規定があります。つまり適時・正確に書かれた帳簿は、裁判でも証拠物として認定され、経営者を守る力になるということが分かりました。歴史的にこの思考は租税法上の帳簿の証拠力につながっていきます。
そしてもう一つは、健全経営を遂行するための自己報告であるということ。帳簿は他でもない経営者のためにあるということが歴史的に証明できたのです。これで、「なぜ経営者自らが記帳しなくてはいけないか」という論陣が張れる。ようやく胸がすっとして、経営者にも「帳簿は会計で会社を強くするためにあります」と堂々と言えるなと得心したんですよね。
──お話をうかがい、飯塚毅先生と武田隆二先生の薫陶を受け、「会計で会社を強くする」意義を研究者として追求されてきた。そして実務家として、事務所経営とリンクさせながらその理論を実務に展開されてきたことがよく分かりました。坂本会長に、われわれTKC会員は非常に期待しています。ぜひ頑張っていただきたいと思います。
坂本 ありがとうございます。こちらこそどうぞよろしくお願いします。
坂本孝司(さかもと・たかし)会長
1956年静岡県浜松市生まれ。78年神戸大学経営学部(武田ゼミ)卒。81年浜松市に事務所開設、同年TKC入会。98年東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、2011年愛知工業大学より博士号を授与。経済産業省・中小企業庁等の委員等を歴任。現在、愛知工業大学経営学部教授、中小企業会計学会副会長。主な著書に2011年度日本会計研究学会太田・黒澤賞を受賞した『会計制度の解明』(中央経済社)、『会計で会社を強くする』(TKC出版)、『ドイツ税理士による決算書の作成証明業務』(同)など。
(構成/TKC出版 篠原いづみ)
(会報『TKC』平成29年2月号より転載)