木村英和社長
北上川が追波湾に注ぐ河口付近、宮城県北部の沿岸部に位置する北上町(石巻市)。鉄道線路の新設・修復など建築土木業を営む木村工業の本社はその北上町の小室という集落に存在していた。海岸からはほんの100メートル程度。
一方、仙台市の南10キロ、亘理町の現場にいた木村英和社長(53)は、強い揺れに続いて発せられた「大津波警報」に急ぎ本社兼自宅へと向かう。が、道路はまひ状態で信号も消え、一瞬、海沿いの迂回路を使うことを考えたが、やはり危ないとやや内陸部を走る国道6号線の渋滞に並んだ。案の定、その迂回路は数十分後には津波にのみこまれる。「とにかく本社(自宅)に帰れるような状態ではなく、塩竃の仙台営業所にたどり着くのがやっとでした」と木村社長は述懐する。
被害総額は2億円を超えた!
当時、本社には木村社長の夫人(経理担当)と事務員の2人がいた。警報が鳴るや否や近隣の人たちと声をかけ合って、裏手にある神社の高台へと逃げ上がった。湾の水が見たこともないほど引いていた。そのほんの数分後、波が湾を乗り越え、避難した高台の足もとを洗い出す。そして、下に見えていた本社と木村社長の自宅がゆっくりと押し流されていった。ちなみに、小室地区での犠牲者はわずかだったが、隣接する集落では数十人単位で津波に飲み込まれたという。
岩手県の宮古に派遣されていた12名の線路工事のチームも心配された。しかし幸い、前日の夜間作業にもかかわらず昼の2時には起きていて、全員が高台に避難できた。
「社員に犠牲者はありませんでしたが、社員の家族は8名の方が亡くなりました。家を流された人も多く、当初は再スタートを切れるとはとても思えませんでしたね」
それもそのはず、本社と自宅は言うに及ばず営業車13台、重機や施設などにも相当な被害が出て、換算してみると、被害総額はなんと2億円を超えていたのだ。これは木村工業の年商の3分の1をはるかにしのぐ数字である。
とはいえ、落ち込んでいる暇はない。木村社長は生まれも育ちも北上町の小室地区育ち。ガレキにまみれた故郷の惨状に黙っているわけにはいかない。というわけで、震災翌日の12日には本社に戻り、奥の倉庫にかろうじて残っていた重機を引っ張り出し、近隣の人たちと協力しながら、ガレキが散乱する孤立した小室地区から救援物資が届く地点までの道路づくりを行った。さらに、驚くべきことに、その2日後の15日には、仙台営業所を拠点として、本業である鉄道線路の復旧作業をスタートさせたのである。
その15日くらいにはすでに避難所や親戚の家から従業員が三々五々集まってきていた。避難所では食糧が行き渡らず、朝食を抜いて出社するスタッフもいた。それどころか、家が流され、身ひとつで仙台営業所に寝泊まりする従業員も10名ほどを数え、食糧やガソリンなどを毎日、買い出すための部隊が必要なほど生活環境に窮していた。もちろん木村社長も仙台営業所に寝泊まりして陣頭指揮をとった。
「厳しい状況のなか、私を含め当社のスタッフたちを動かしていたのはある種の“使命感”でした。大変なことになっている地元を助けたいとの気持ちがなければ、あそこまで動けなかったと思います」
震災1カ月後、ある若い社員と話を交わすと「実は1カ月間休んでないんですよ」との返事。強制されるわけでもなくただ黙々と働き続ける社員たちに、木村社長は会社全体が一丸となる感覚を味わった。
さて、話を戻そう。
鉄道は復旧への象徴的存在である。とりあえず復旧を急ぐのが新幹線と東北本線。震災から3日後の3月15日には新幹線の橋脚の補強工事に入った。東北新幹線が思いのほか早く復旧したのは、木村工業のような地場業者の奮闘があったのである。また、東北本線はもちろん、通勤電車として数多くの人が利用する「仙石線」(仙台・石巻間の東北本線の支線)の復旧も早くから手がけた。たとえば、仙石線の「越の浦」あたりは170メートルにわたって線路がちぎれて流されてしまっていたが、基礎から作り直した。まず、東塩竃駅までを復旧し、後に高城町駅まで懸命に延伸させた。まだ、石巻までは道遠しだが、この仙石線がこのあたりの復興の象徴的な存在ともなっている。
代替の効かない専門職の強み
これまでの木村工業を支えてきたのは、線路工事に特化する技術の高さと、若いスタッフたちによる機動力である。元請け会社の要望を余すところなく聞きすばやく実践していく会社としての質の高さが、同社が生き残ってきた最大の理由だ。
線路工事は通常夜間に行われ、通過電車の間を縫って2時間で一気に行わなければならない。事故に最大限気をつけながら集中して作業する作業員は「10年でようやく一人前になる」といわれる。OJTもままならないので、人を育てるのも一苦労。つまり、他の建築土木会社では代替が効かない専門職なのである。
実際、震災後の最大の懸案だった資金繰りについて、元請けから最大限の援助を受けることができたのも、そんな同社の存在感を表しているといえるだろう。
「会社として動くにはお金が必要ですが、銀行の通帳もカードも流されてしまって引き出せません。なので、当面は元請けへの売掛金(約3000万円)を早期に現金化してもらって凌ぎながら、4月以降は、やはり元請けから6000万円の超低利融資(3年据え置き)を受けました。このほかにもユニフォームやヘルメット100人分なども用意していただくなど、至れり尽くせりで本当に助かりました」
そんな元請けからの絶大の信頼を受けている木村工業。地元のガレキ撤去など一般土木工事も加わって、仕事量は増加の一途である。ちなみに、ガレキ撤去事業では地域貢献の意味で、被災者を優先して短期雇用しながらこなしている。
しかし、一方で木村社長は「いろんな意味で、会社が立ち直るには3年は必要」という。
「金融機関や元請けからの借り入れも返していかなければなりません。それから復興需要といってもせいぜいあと1、2年の話。ですから当社では今後、できるだけ先が見通せる線路関連に重心を戻すように心がけるつもりです」
きれいさっぱり流されてしまった顧客データは銀行のファームバンキングから作り直し、また、財務・給与データも、三浦悠平税理士事務所の前月までのバックアップデータを参照しながら再構築に取りかかっている。もちろん課題は山積みだが、木村工業の前途には確実に明るさが戻りつつあるといえよう。
(取材協力・三浦悠平税理士事務所/本誌・高根文隆)
名称 | 木村工業 |
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所在地 | 宮城県石巻市桃生町城内宇佐野合94-2 |
TEL | 0225-98-3657 |
売上高 | 5億5000万円 |
社員数 | 90名 |