群雄が割拠する戦国時代を巧みに生きぬいた、真田家。もともと10万石に満たなかった地方の領主が存続しえたのは異例のことだ。真田昌幸、信之・信繁(幸村)親子が重要視したのは「情報」にあると作家の加来耕三氏は読み解く。

プロフィール
かく・こうぞう●昭和33年大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒。同大学文学部研究員を経て、昭和58年から著作活動に入る。『歴史研究』編集委員。内外情勢調査会、政経懇話会、中小企業大学校などの講師を務める。近著『刀の日本史』(講談社現代新書)、『曹操の人望力』(すばる舎)、『歴史に学ぶ自己再生の理論』(論創社)ほか著書多数。年間講演回数は160回を数える。
真田親子に学ぶ危機突破力

 中小企業経営者が集まる会合で講演するとき、よく題材に取り上げるのが真田家です。真田家はもともと信濃国(現・長野県)・真田の里に発祥を持つ小土豪で武田、上杉、北条、徳川といった大名家に四方を囲まれながらも、時代の趨勢(すうせい)を見極め戦国の世を生きぬきました。規模からいえばわずか数万石の小領主であり、たとえるなら地方の中小企業といえるでしょう。その生き残り術には現代の企業経営に活用できるヒントが隠されています。

 真田家は、昌幸(まさゆき)の父・幸隆(ゆきたか)が甲斐(かい)(現・山梨県)武田家の家臣団に加わり、歴史の表舞台に登場しました。真田家の特筆すべきところは幸隆、昌幸、信之(のぶゆき)・信繁(のぶしげ)(俗称は幸村(ゆきむら))3代のいずれの人物も揃(そろ)って優秀だったという点です。偉大な父親を超えようとして痛手を負う後継者があとを絶たない時代にあって、真田家は稀有(けう)な一家です。要因として、親子間あるいは仕えた主君との間で重んじるべき「教え」をうまく継承できたことにあると考えています。

戦略と戦術の合わせ技

 幸隆が武田信玄に仕えたのは天文14(1545)年ごろとされています。その4年前には信玄が父親の信虎(のぶとら)を追放し国主につくというクーデターが起こっていました。武田家といえば戦国最強の騎馬隊で有名ですが、家督を継ぎ信濃の平定にのり出した信玄は負けいくさ続きでした。当時の信濃国は村上氏、小笠原氏、諏訪氏などが割拠(かっきょ)し、混沌(こんとん)状態にあったのです。敗戦続きの信玄にとって大きな力となったのが、ほかならぬ幸隆でした。幸隆はかつて信虎に攻められ故郷を追われるという苦い体験をして以降、信濃の情勢を冷静に観察していました。攻略に手こずる信玄に力を貸せば、追われた領地を取り戻せるという読みもあったのでしょう。

 小領主がひしめく信濃にあって幸隆は、調略を駆使したゲリラ戦を得意としていました。強みがいかんなく発揮されたのが戸石(といし)(砥石)城攻めです。かつて信玄が力攻めし、1000人の死者を出すなど手痛い敗北を喫していましたが、幸隆は信玄の提供した資金を活用して調略を図り、わずか1日で無血開城させました。

 ところで、信玄は「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」という分国法を制定しています。この分国法の異色な点は、信玄自らも処罰の対象になると規定したところです。このことから甲斐国では信玄の独裁ではなく、共和的な体制が敷かれていたと考えられます。「武田二十四将図」という武田家の重臣を描いた絵図がありますが、信玄自身が描かれていることも当時の体制を象徴しているのではないでしょうか。

 カリスマ性の乏しかった信玄は孫子の「兵法」から情報の優位性を学びます。情報をいち早くつかみ、味方に伝える。あるいはにせの情報を流して敵方を混乱させ、内訌(ないこう)状態に陥らせる。敵をガタガタの状態にした上で攻め込むわけですから、すでに勝負はついています。まさに「戦わずして勝つ」という戦略です。

 信玄はさらに戦術を組み込みます。「赤備(あかぞな)え」はその代表でしょう。どの大名家も屈強な人間を選抜して部隊を編成しているわけですから、本来戦闘力にそれほど差はないはずです。情報戦で相手を攪乱(かくらん)させ、勝てる舞台が整ってから、甲冑(かっちゅう)を赤色で統一した騎馬隊で攻め込む。負けるはずがありません。赤備えの騎馬隊は最強だといううわさがいつしか広まっていったのです。

負けいくさから学ぶ

 武田信玄の「兵法」ゆずりの戦略と真田幸隆のゲリラ戦で培った戦術。幸隆の子、昌幸は2人の間近で両者を学びました。昌幸は信玄に小姓として召し抱えられ、戦略の何たるかについて、直接薫陶を受けたのです。昌幸はしばしば「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」といわれます。裏切り者とか狡猾(こうかつ)な人物と解釈する人がいますが、私はスケールが大きく何をしでかすかわからない人物と理解しています。

 昌幸の長男である信之は武田勝頼(かつより)の小姓として、次男信繁は上杉、豊臣家に預けられ戦略を学ぶ機会がありました。真田親子は学びとった戦略、戦術を実践で試します。もちろん負けいくさもありました。日本人は負けいくさからあまり学びたがりません。太平洋戦争について真珠湾攻撃をテーマにした本は売れても、ミッドウェー海戦を扱った本は売れない。企業の社史を試しに眺めてみてください。新製品を開発したり支店を開いたり、業績を伸ばした話のオンパレードのはずです。失敗した事業に関しては「諸般の事情により撤退」などとほんの少し触れられる程度です。なぜ負けたのか、敗因の研究ほど重要なことはありません。真田氏は信濃国でどの大名につくべきか旗色をうかがいながら、生きた戦略・戦術を身につけました。世の経営者は負けいくさの話にもっと耳を傾けるべきです。

 武田家は信玄亡き後、勝頼が後を継ぎますが、長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)の戦いに敗戦したことをきっかけに、昌幸の支えもむなしく滅亡してしまいます。四面楚歌(しめんそか)の状態に陥った昌幸は、築き上げた情報網を駆使し織田、北条、徳川、上杉と次々に主君を乗りかえ、巧みに遊泳します。情報を入手する有力な手段となっていたのが忍びの者でした。大河ドラマ『真田丸』では佐助が登場しますが、情報を入手したり、伝達する役割を担った人物を活用していたはずです。真田十勇士は後世につくられた逸話ですが、根拠がないわけではなく、佐助のような真田家を支えた人物が偶像化されてできあがった話なのでしょう。勝頼が生きのびていれば、昌幸は武田家存続のため面白い“絵”を描いていたはずです。

大坂の陣は格好の材料

 負けいくさからもっと学ぶべきだと話しましたが、なかんずく大坂の陣は数多くの材料を提供してくれます。

 大坂夏の陣のおり、徳川家康は真田信繁の決死の突撃を受け、4里(約16キロ)逃走したといわれています。なぜか。最たる要因は、戦場に立っていた武将の世代交代にあると思います。関ヶ原の戦いから15年が経過しており、徳川方についた大名の多くが代替わりをしていました。猛将・本多忠勝も世を去っています。豊臣方5万に対して徳川方20万。家康の周りを固める旗本衆は、よもや敵方が間近まで攻めてこられるわけがないと思っていた。そこへ突如、赤備えをまとった信繁隊が押し寄せてきたわけです。家康の居場所を示す旗印が落ちたのを見て、総大将が討ち取られたと勘違いしてパニックに陥ったとの記録もあります。

 翻って今日に置きかえて考えれば、企業には昭和を知らない平成世代の社員が続々と入社しています。彼らは高度成長期の日本を知りませんから、明日は今日よりも明るいという認識をそもそも持っていないわけです。いわゆる根性論は通用しません。まず、こうした思考様式を念頭に置いてコミュニケーションを図るべきではないでしょうか。

 1年前の冬の陣のおり、大坂城に入った信繁は野戦を主張します。関ヶ原の戦い後、紀州国九度山(くどやま)に蟄居(ちっきょ)させられた昌幸、信繁親子は日々戦略、戦術について論じていたことでしょう。しかし、信繁の主張は退けられます。

 希代の戦略家である昌幸は幸村の主張が受け入れられないことを予想していました。「世の人々は話の内容はあまり聞いていない、物事は誰が言ったかによって決まる」と。確かに昌幸は指揮官として2度にわたる上田合戦で徳川の軍勢を破り、活躍は世に知れ渡っていましたが、信繁には何の実績もありません。豊臣方が欲していたのは昌幸の息子が駆けつけてくれたという事実であり、戦略を幸村に任せる肚(はら)は持っていませんでした。

 その証拠に大坂城の弱点であった南東の場所に真田丸を築いて防衛するという申し出はあっさり認められます。籠城する前に打って出て緒戦に勝利すれば、浮き足だった敵方の中に寝返る武将もいたかもしれない。豊臣方には浪人とはいえ後藤又兵衛(ごとうまたべえ)、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)といった実戦経験豊富な武将も含まれていたためチャンスが生まれたかもしれない。結局、信繁は家康を討ち取ることを目指して突撃するという戦術をとるしかなかった。戦略を試す機会に恵まれなかったのは無念だったと思います。

対話の重要性

真田親子の生き残り策から読み解く教訓
 ◆戦略と戦術を使い分ける
 ◆失敗を直視して学ぶ
 ◆会話から情報を得る

 昌幸と信繁の活躍に隠れてあまり目立たない信之ですが、大坂の陣では徳川方につき、信濃松代(まつしろ)藩主として93歳という長寿を全うしました。信之のハイライトは最晩年にやってきます。信之は92歳にしてようやく隠居することを江戸幕府から認められ、息子の信政が松代藩主につきます。ところが半年後、信政が急逝し、跡継ぎをめぐってお家騒動が起こります。信之は信政の息子、幸道に継がせようとしましたが、信政の後、沼田藩主となった真田信利が異を唱えました。これに縁戚関係にある幕府の大老、酒井忠清(ただきよ)も加わり、信利を松代藩主へ据えるよう主張します。忠清は将軍家に代わり自ら幕府を指揮しようとして「下馬将軍」といわれたほど権勢を振るった人物です。

 信之はあくまで信政の遺書にあった幸道を後継者につけることを主張。切腹を覚悟の上、550人の家臣から血判状をとり、幕府に提出。幕府の評定(ひょうじょう)で信之の意見が採用され松代藩13万石の窮地を救いました。ときの権力者を向こうに回して主張をのませたところに信之のしたたかさを見ます。信之は沼田藩主として早い時期に独立しますが、もし真田家のキーワードをひとつ挙げるなら、私は「分配」とします。昌幸は健在のうちに信之をあえて独立させて生き残りを図った。新たな事業分野に進出するときも、すべての経営資源を投入するのでなく、既存事業にも軸足を残しておくべきなのです。

 戦国時代というと、骨肉争うイメージがあるかもしれませんが、それは作られた話で家族仲は悪くありませんでした。織田信長は弟の信行を殺しましたが、姉のお市とは生涯仲が良かった。上杉謙信も兄を国主の座からおろしましたが、殺していません。下剋上の時代は基本的に家族が中心です。家族仲が悪ければ敵につけ込まれます。なにも真田親子が特別というわけではないのです。

 戦略・戦術のベースにあるのは情報です。時々刻々と変化する時代では鮮度の高い情報が求められます。価値ある情報を入手するためには、あらゆる機会をとらえて顔を合わせて会話し、言外の情報まで読み取る必要があります。そして言葉を額面通りに受けとめていいのか、なぜそうなのか、もしそうでなければどうなのか、立ち止まって考える習慣を身につけることが大事です。例えば時事問題について会話したり、社内で勉強会を開いてコミュニケーションをとったりして社員の考え方や行動様式を熟知できていれば、いざ物事が起こったときに適切な人物に役目を命じることができます。「いざ鎌倉」の大事な局面に対処するための要諦(ようてい)は、日ごろの意思疎通にあるのです。

(構成/本誌・小林淳一)

掲載:『戦略経営者』2016年8月号